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屋外展示(広見公園内)

市内の歴史的建造物などを移築して展示

旧稲垣家住宅(静岡県指定有形文化財)

稲垣家住宅

稲垣家住宅は、文化元年(1804)に建築された、年代がはっきると分かるものの中では、市内で現存する最も古い民家です。富士山麓周辺において貴重なこの建物は、明治時代中期に養蚕を行うために兜造(かぶとづくり)の屋根に改造されたとみられています。兜造とは、屋根の形が兜に似ていることからその名がつき、両妻面に窓を開けて通風と採光を図ったもので、小屋裏を広く使うことができます。その他、蚕を保温するための囲炉裏や、その熱が小屋裏へ抜けるように張ったスノコ状の天井板、煙出しのための越屋根など、養蚕農家としての工夫が随所に見られます。
平成21年3月23日に静岡県指定有形文化財に指定されました。

年始年末をのぞく毎週日曜日および祝祭日には稲垣家内部を公開しております。
また、公開日には囲炉裏に火を入れ、来館者の皆様にお茶のサービスを行っております。(無料)
皆様お誘いあわせのうえ、是非お越しください。

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道しるべ

現在の富士市の中央部に位置した吉原宿は、東海道の宿場であっただけでなく、大宮街道、根方街道、十里木街道などいくつかの街道の起点となる交通の要衝でした。その周辺には、通行する人々の目印となる道しるべが建てられていました。

仁藤春耕のみちしるべ

仁藤春耕のみちしるべ

(旧所在地:富士市「富士岡」交差点北東角)
旧吉永村の農民であった仁藤春耕は、明治39(1906)年から5ヶ年をかけて、御殿場にいたる十里木街道などに自費で約120基の道しるべを建てました。写真はかつて富士岡に建てられていた第2号みちしるべです。



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東海道・大宮街道の道しるべ

東海道・大宮街道の道しるべ

(旧所在地:富士市吉原4丁目・静岡銀行吉原支店角)
明治23年(1890)に大宮街道の大改修を記念して、東海道と大宮街道の分かれ道に建てられたものです。



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根方街道の道しるべ

根方街道の道しるべ

(旧所在地:富士市今泉3丁目「金子曲がり」)
表:根方街道
右横:東海道吉原方面
左横:十里木街道ニ通ス



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樋代官長屋門

樋代官長屋門

この長屋門は、厚原・植松家の表門で、江戸末期のものとと伝えられる富士市内唯一の長屋門です。植松家は、今から800年ほど前、植松家2代兵庫之助信継がこの地に移り、開墾を行いました。それ以後、植松家は代々飲料水や田畑のかんがい用水を供給する鷹岡伝法用水を管理してきました。この用水では富士山から南北に流れ出る沢を越すために樋を渡していたので、植松家は樋代官と呼ばれていました。

旧松永家住宅

旧松永家住宅

平垣の豪農・松永家の150坪におよぶ居宅の一部を復元したもので、安政4年(1857)に建造された、武家風様式をのこす貴重な建物です。江戸時代の富士市には旗本領が多く、松永家には旗本領の陣屋がおかれ、領主に代わって年貢のとりまとめを行う業務を担っていました。明治時代になって陣屋を解職されてからは、富士駅や製紙会社の誘致、小学校の建設など、近代化をすすめる事業に携わりました。ここに復原されたのは表門と主屋の一部ですが、当時の主屋は150坪ほどで、およそ20余りの部屋がありました。

一字一石経王塔

一字一石経王塔

一字一石経王塔の信仰は、経典を長く保存しようという考えのもとに、江戸時代には庶民の間で盛んに行われました。さまざまな願いをこめながら小石に一字ずつ経文を書き、これを地中に埋めてその上にこのような石塔を建てたのです。
これは寛政2年(1790)に現在の吉原・東本通1丁目に造営されたものです。

原泉舎

原泉舎

この土蔵は、今泉の妙延寺に嘉永元年(1848)に建てられ、明治6年(1873)には今泉小学校の前身である原泉舎の教場として使われました。天井には墨絵の竜が描かれ、入口の左右には中国二十四孝の物語を題材にした漆喰のこて絵があります。

横沢古墳

横沢古墳

横沢古墳は、大淵横沢の伝法沢西岸に6世紀後半(1400年ほど前)につくられたと考えられる横穴式石室を持つ円墳です。石室内からは、人骨や馬具、直刀、金銅製の鈴、土器などの副葬品が出土しました。とくに金銅製の鈴は全国的にも貴重な物で、博物館に展示されています。 広見公園周辺には、6~7世紀に造られた古墳がたくさんあり、その多くは土の中で深い眠りについています。

東平遺跡高床倉庫

東平遺跡高床倉庫

東平遺跡は、東名富士I・C周辺に営まれた奈良~平安時代始め頃(8~9世紀前半)の大集落跡です。今までの発掘調査から、この遺跡は当時の駿河国富士郡の役所と深いかかわりを持つ遺跡であると考えられています。 この高床倉庫は発掘調査に基づいて復原されたものです。東平遺跡からは、このような掘立柱建造物跡が70棟近く発見されています。

東平遺跡竪穴住居

東平遺跡竪穴住居

復原された竪穴住居は、高床倉庫と同じ9世紀前半のものです。武器等も数多く出土し、集落の中心的な役割をもった人が住んでいたと考えることができます。また火災によって焼失した住居であったため、土器のほか木製の皿などの生活雑器も出土しました。東平遺跡では、このような住居跡が300軒近く発見されています。

万葉歌碑「東歌」

万葉歌碑「東歌」

天の原富士の柴山木の暗の 時移りなば逢はずかもあらむ 『万葉集』巻十四には東歌(巻十四中の東国関係の歌)と呼ばれる7世紀末から8世紀中頃の東国庶民の歌が数多くおさめられています。この歌もそのひとつで、富士のふもとの柴山の暗く生い茂った木陰で、約束の時間がすぎてしまったら、二人は逢うことができなくなってしまうかもしれない、と山路をいそぐ不安な気持ちを詠んだ恋の歌です。

小糸のぶ文学碑

小糸のぶ文学碑

小糸のぶは、明治38年(1905)吉原町に生まれ、静岡県女子師範学校を卒業後、各地の小学校で教師をつとめました。昭和16年(1941)、東京市内の小学校につとめていたとき、国民映画脚本募集に応募した「母子草」が当選し、一躍世に知られることになりました。碑には「母子草」の一部分が刻まれています。

眺峰館

眺峰館

3階建で正八角形、避雷針つきのトタン屋根。このハイカラな建物は、明治25年(1892)に吉原西本町(現吉原2丁目)の鈴木義三が料理店の玄関として建てたものです。大工は棟札から吉原町の米山卯ノ吉だとわかりました。3階から富士山の眺めがとてもよかったために「眺峰館」と呼ばれて人々に親しまれてきました。

杉浦医院

杉浦医院

杉浦医院は大正8年(1919)に伝馬町(現中央町1丁目)に建てられました。一見すると洋風の建物ですが、2階には和室があり1階が医院として使われました。同医院は初代の秀宜氏が開院して以来、昭和63年に閉院されるまでの70年間にわたり、地域の医療活動を担ってきました。

樋代官植松家住宅

樋代官植松家住宅

江戸時代、厚原で鷹岡伝法用水の管理をしていた植松家の住宅です。建てられて百数十年を経ていると思われますが、その当時の建物としてはめずらしい2階建てです。2階の棟には採光、通風のための越屋根があり、また内部には土間、かまど、いろり、納戸などがあります。植松家の長屋門とあわせてご覧ください。

旧独楽荘石倉

旧独楽荘石倉

この石倉は、大正9年(1920)頃伊藤博邦公爵(伊藤博文の養子)の興津の別荘・独楽荘に建てられました。石には伊豆石が用いられ、内部は2階建です。母屋とは渡り廊下でつながり、中には伊藤家ゆかりの品々が収納されていたようです。その後水戸島の斉藤寿夫氏の所有するところとなり、伊藤家ゆかりの石倉として長く邸内に保存されていました。

なまこ壁の倉

なまこ壁の倉

岩間秋江氏のご好意により、平成10年に広見公園内に移築され、休憩所として親しまれています。(建築は昭和51年)

友好の像-プチャーチン提督と日本の漁夫-

友好の像-プチャーチン提督と日本の漁夫-

1854年12月、プチャーチン率いる外交使節を乗せたロシア軍艦ディアナ号が下田港に来航しました。安政の大地震に遭遇したい葉したディアナ号は、修理のため西伊豆の戸田へ向かうことになりました。折からの悪天候のため漂流し、1855年1月、現在の富士市沖で沈没しましたが、地元漁民らの救助活動により、外交使節と多くの乗組員は無事に上陸することができました。後の1855年2月7日、下田で日露和親条約が結ばれました。この友好の像は、富士市の先人の勇気と献身的な行動に対して、また日露和親条約締結140周年を記念して、ロシアから寄贈されたものです。尚、博物館本館には、ディアナ号模型などが展示されています。