子どものための博物館topへ

はくぶつかんこうざ

読書カミすけ
※「はくぶつかんこうざ」は、博物館かわらばんの記事より抜粋したものです


gb 旧石器時代の石器

せっき 旧石器時代(きゅうせっきじだい)の黒耀石(こくようせき)で作られた石器(せっき)には、 左の絵のようなものがあります。 これらの石器は、ナイフのように鋭い刃で、ものを切る石器です。 ナイフのように動物の皮や肉などを切るためのナイフ形石器、 溝などを掘るための彫器(ちょうき)、 木などを削るための削器(さっき)、 そして皮や木などをひっかくための掻器(そうき)などがあります。 ところで、これらの石器はどのように作るのでしょうか。 黒耀石のかたまりは、鹿の角で叩いて作ります。 石のように固い物で叩くと割れてしまって、鋭い刃物のような感じの石がとれません。 ですから、石より柔らかい鹿の角でたたくと剥がれるような感じで石がとれ、 刃物として使えるわけです。 「石器」と一口にいっても、いろいろな種類があります。 時代(旧石器時代、縄文時代)によってもその使い方がちがってきます。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 「石鏃(せきぞく)」って知ってる?

せきぞく 左の絵のものは、何だと思いますか。 これは、「石鏃(せきぞく)」といって石で作られた“やじり”(弓矢の先)です。 縄文時代(今からおよそ10000万年前から2000年前) に使われはじめたものです。 縄文時代になって人口がふえ、それまで使っていた槍(やり)では、 たくさんの獲物がつかまらず食べ物がたりなくなってしまいました。 そこで人々は、すばやくて槍では捕まることができなかった小さい動物を、 何とかつかまえて食料にしようと考え弓矢を作りました。 その弓矢の先に使ったのが石鏃です。 石鏃はどれも1センチ~2センチくらいのとても小さなもので、 先の尖った三角形をしています。
げんしじんカミすけ

はくぶつかんこうざtopへ

gb 縄文時代の人は長野県までいっていた?!

和田峠の地図 石鏃(せきぞく)は、黒耀石(こくようせき)と呼ばれる石で作られています。 富士市内の天間沢(てんまざわ)遺跡からも石鏃は発見されています。しかし、黒耀石は、 富士の周辺ではとれないものなのです。 ではいったい、富士周辺に住んでいた縄文時代の人々は、 どのようにこの黒耀石を手に入れたのでしょうか。 実は、この黒耀石は、長野県の和田峠のあたりでとれる石なのです。 当時の人々は、はるばる長野県まで歩いていって、この石を手に入れたようです。 今では和田峠まで車で3時間くらい(富士市から約120㎞)で行ってしまいますが、 当時はいったいどれくらいかかったのでしょうか。 当時の人々が、こんなに遠くまで移動していたなんて、おどろきですね。 思っていたよりも、いろいろな所に歩いていったのですね。すごい!!(^o^)/

はくぶつかんこうざtopへ

gb 縄文人はとってもえらい科学者だった?!

どきづくり 縄文時代の人たちが、「石鏃(せきぞく)」を作りましたが、 じつは、もっといろいろなものを発明していまいした。 たとえば「土器(どき)」です。ねんどを焼くことで 土器をつくることをおぼえました。今では、「なべ」や「かま」などの道具を使って、 煮たり焼いたりして、おいしい料理をたくさん食べることができますが、 土器がなかったころは、かたい木の実などは食べることができませんでした。 しかし、土器を発明することで、 「ゆでる」「蒸す」「煮る」といった方法ができるようになり、 いろいろなものが、よりおいしく、たくさん食べられるようになったのです。 ほかにも発明したものがあります。 縄文時代には、海に出て漁もしました。 その漁をするために、考えたのは「石錘(せきすい)」「モリ」などの道具です。 (くわしくは、博物館に来て勉強してね) このように縄文人はとってもえらい科学者だったのです。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 米作りと弥生人

こめづくり 弥生時代(やよいじだい)といえば、みなさんはどんなことを思い浮かべますか。 6年生のみなさんなら、「卑弥呼(ひみこ)」「登呂遺跡(とろいせき)」といったことが 頭にうかぶと思います。もうひとつとっても大切なことがあります。 それは、「米作り」です。 「稲」は、もともとインドのほうで自然にはえてたものを、 人間が食べ物として栽培したものだそうです。 それが縄文時代のおわりごろになって日本に伝わりました。 いつも食べ物に苦労していた人々は、天候さえよければ一定の量が穫れ、 しかも長い間とっておくことができる米をたいへん喜びました。 米作りの技術はたちまち日本中に広がり、弥生時代の終わりころ(今から1700年くらい前)には、 日本全体に広がりました。
米が日本に入ってきたことによって、 それまでの縄文時代の社会に変化がおこりました。 米作りに使う農具が発達し、稲作が進歩したことにより、米をたくさん持つ人とそうでない人との差(貧富の差)がでてきました。 その一方であらたに、水の問題から争いがおこるようになり、その争いの仲直りをさせるなどために あたらしいリーダーが村にうまれるようになってきました。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 古墳って知ってる?

こふん 今から1,600年から1,300年くらい前の古墳時代(4世紀~7世紀)に たくさん造られたものです。 弥生時代に貧富の差がうまれたことを勉強しましたが、 その身分の高い人のお墓が古墳なのです。 この人たちは、「人々に偉く思われたい」「死んだ後の生活の場にしたい」と 考えてこのようなものを造りました。 この絵は、日本一大きい古墳は、堺市にある「大山古墳」です。 この古墳を造るのに、一日1,000人で4年間もかかったそうです。 古墳造りの労働にかりだされたのは、農民です。 自分の農業の仕事と古墳造りとが重なったら大変なことだったことでしょうね。 富士市にも大山古墳ほど大きくはありませんが、 たくさんの古墳が発見されています。 だいたい600基(古墳は「基(き)」と数えます)ほど発見されていますが、 大きいもので長さ100メートル(浅間古墳)になるものもあります。 大きな権力をもっていたことが想像されますね。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 古墳のいろいろ

古墳にはいろいろな種類があります。 日本の古墳は、もともと中国・朝鮮の古墳をまねてつくられたようです。 古墳の形は、その中に入ってる人の位、性別(男か女か)、年齢、 造られた時期(古墳時代は約600年間)などによってちがってくるようです。

こふんいろいろ
前方後円墳方墳円墳
前方後方墳上円下方墳双方中円墳
双方中方墳帆立貝式古墳双円墳
これらの古墳を古い順に並べられるかな?

はくぶつかんこうざtopへ

gb 浅間古墳(せんげんこふん)

せんげんこふん 富士市の中で一番大きい古墳は何か知ってますか? それは、増川にある浅間古墳です。これは全体の長さが100メートルにもなり、 静岡県の東部でもっとも大きい古墳といわれています。 この古墳は、前方後方墳ですが、実際にいってみるとその大きさには驚かされます。 古墳の大きさと権力はとても関係が深かったのですね。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 古墳は本当に力のある豪族の墓だったのか

ことひら古墳周辺 古墳時代は4世紀から7世紀にわたっていますが、富士市では、 その400年間に600基もの古墳が造られました。 みなさん、ここでちょっと考えてみてください。 古墳はどんな人の墓だったのかおぼえていますか? 古墳は、その地方の有力(力のある)な豪族の墓でしたね。 ここで疑問ですが、 当時のこの地方に400年の間に600人も力のある豪族がいたと思いますか?。 これはちょっと考えにくいことです。 じつは、600基のうち、本当に有力な豪族の古墳は100基ほどでした。 では、あとの500基ほどの古墳はいったいだれの墓だったのでしょうか。 6世紀後半から7世紀にかけて、古墳造りは有力な豪族ばかりではなく、 広くふつうの人々の間にも広まりました。 家の中で一番えらい人(家長(かちょう)といわれました)の墓として 小さな古墳を造ることがはやったようです。 だから、400年の間に600基もの古墳が造られたのですね。 時代の変化とともに古墳造りも変わっていったのですね。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 富士の巻狩り(ふじのまきがり)

ふじのまきがり みなさんは、源頼朝(みなもとのよりとも)という名前を知っていますか? そうです、あの鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開いた人です。 1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)=鎌倉幕府の最高責任者(さいこうせきにんしゃ)になり、 鎌倉に幕府を開きましたが、その源頼朝と富士市が関係あったことを知っていますか? 頼朝は、幕府を開いた次の年の1193年、富士山の裾野(今の富士市大渕のあたり)で、 富士の巻狩り(「巻狩り」というのは狩りをする場所を周りから取り囲んで、 猪や鹿などを追いつめて捕まえる方法のことです。)をやりました。 いったい頼朝はなぜこんなことをしたのでしょうか。 これにはふたつの理由がありました。ひとつは軍事訓練、 もうひとつは武士たちの慰安(いあん)です。 おどろいて逃げ回る鹿や猪を弓矢などを使って射止めるのですが、 これが訓練になったようです。 また、武士たちの楽しみ(慰安)のひとつとしても考えられていたようです。 武士の中には自分の力を頼朝に見せつけて位をあげてもらったり、 ほうびをもらったりするものもあったようです。 このように頼朝は、「巻狩り」をすることによって、 幕府の力を人々に示したのでしょう。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その1 「参勤交代」「大名行列」

みなさんは”徳川家康(とくがわいえやす)”という人を知っていますか? 今から400年くらい前に江戸(今の東京)に「江戸幕府」を開いた人です。 家康は、地方の大名が徳川幕府に反抗しないようにいろいろなきまりを作り、 それに反した大名は領地を他の領地に移したり、家を取りつぶしたりしました。 3代将軍家光の時には、大名の妻や子を人質として江戸に住まわせ、 大名を1年おきに江戸で生活させるような制度をつくりました。 大名は、交代で江戸にを守るべきであるという考えからです。 このために、大名は多くの家来を連れて、江戸と自分の国を往復しなければならず、 たいへんな費用がかかりました。 この制度を「参勤交代(さんきんこうたい)」といい、 これによって地方の大名は経済力が弱まりしだいに幕府に反抗する力がなくなってしまいました。 毎年、4月ころになると、数十人から数百人、 ときには千人以上もの武士たちの行列が見られました。 加賀藩(かがはん・今の金沢)の藩主・前田家の場合、 行列の人数は4000人もありました。この行列では、まず、 行列のつゆはらい(先導役)をつとめる50人ほどの小部隊が、 本隊の2Kmほど先を進みます。 本隊(おもにお殿様にじかにつかえる家来が450人ほど)がつづき、そのあとを お殿様の家来の家来がしたがいました。 ときには、行列が全部通りすぎるのに2~3日もかかりました。 行列の人びとは、あとからあとからつづきました。 このように地方の殿様が行列をくんで歩くことを 「大名行列(だいみょうぎょうれつ)」 とよびますが、こんなにたくさんの人びとが江戸につくまでは、 かなりの日数やお金がかかったでしょうね。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その2 「大名行列」「江戸の暮らし」

加賀藩(かがはん・今の金沢)の藩主・前田家の場合、 大名行列の人数は4000人にもなりました。 その人たちが何日も、時には何十日もかけて江戸まで行きましたが、 その間にかかるお金はどれくらいになるか想像がつきますか?。 今だったら、金沢から東京までは新幹線を使えば数時間、 自動車でも高速道路を走れば6~7時間くらいで着いてしまいます。 しかし、江戸時代は徒歩(とほ・歩き)です。 しかも4000人という大人数・・・・・。 加賀藩が4000人で江戸まで行く費用は、な、な、なんと
400,000,000円!!(みんな読めるかな?4億円です!) 江戸時代のお金でいうと、5000両です。 江戸へ行くだけで4億円もかかってしまうなんて、 お殿様は大変ですね。 やっとの思いで江戸に着いた一行ですが、それからがまた大変でした。 江戸で1年間暮らさなければなりませんでしたから、 それにも大変なお金がかかりました。 家来に払う禄(ろく・給料)、大名どうしのおつきあいにかかる費用、 将軍が大名の屋敷を訪ねて来るので、 その時に新しい家具などをととのえる費用などです。 また、今でもそうですが、当時の江戸の物価(いろいろな物の値段)が 高かったので、それもかなりのお金がかかる原因でした。 さて、江戸で1年間にかかる費用は・・・・・・・
6,400,000,000円!!!(@_@)

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その3 「宿場(しゅくば)」

大名行列が宿場にとまるときは、どんな準備をしたでしょうか?

また、加賀藩(かがはん・今の金沢)の例をあげてみましょう。 加賀藩の場合、金沢から江戸まで約120里(1里は4Km。約480Km)を、 一日に10里ほど(約40Km)の速さで歩きました。ですから、江戸につくまでに、 12~13の宿場に泊まりました。
【予約をする】
宿場についた場合、「きょうは、この宿場に泊まるから、よろしくたのむ」などと、 急にいわれたのでは、準備をしていない宿場では困ってしまいます。 そしてまた、参勤交代(さんきんこうたい)は4月が多かったので、 他の大名とかちあうこともありました。ですから、各地の大名は約半年前(6ヵ月前)から 泊まることを各地の宿場に手紙を出して、予約するのがふつうでした。 また、行列が着く2~3日前には、係りの武士が先に宿場に行って、 準備ができているか確かめたり、大名が泊まる本陣のようすを確かめたりしました。
【お金の準備をする】
参勤交代にお金がかかる(加賀藩の場合往復で4億円!)話はしましたが、 ここでは、宿場にどれくらいお金がかかったかを調べましょう。 加賀藩の場合、北国街道(ほっこくかいどう)糸井川宿(いといがわしゅく)で、 今のお金にして1泊3000万円もはらっています。 他の宿場でも同じくらいだったでしょうから、12ヵ所の宿場を使った場合には 2億円以上の宿泊費を用意しなければなりませんでした。 お金のはらいかたが悪いと、大名の評判が悪くなります。 だから、係りの武士は、大金を持ち歩くのにたいへん気をつかったでしょうね。 大名も楽ではないね。(^^;

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その4 「宿場(しゅくば)」

大名を泊めるために宿場はどんなことをしたのでしょう?その1

大名行列の泊まる日が近づくと、本陣(ほんじん・大名が泊まるところ)や 旅籠(はたご・家来が泊まるところ)、それらに泊まりきれない人たちが宿泊する寺や民家などでは、 準備がたいへんでした。なにしろ大きな大名行列の場合、2000人以上もの人々が泊まるのです。 とてもたくさんの皿やお椀などの食器をはじめ、ふとんや夜着(よぎ・ねまきのこと)などを ととのえなければなりません。ときには、近くの村などから借りて準備をするほどでした。 本陣では、門や玄関のところに大名の家紋(かもん・家のしるし)のはいった 陣幕(じんまく・本陣を囲むような大きな幕)を張り、 やはり家紋のはいった大きな提灯(ちょうちん)をあちらこちらにかかげました。 また、門の外には番小屋(ばんごや)がたてられます。 ここは、番人がつめていて、夜回りなどの警備をしました。 また、本陣ばかりではなく宿場全体では、大名が宿泊している日には、 揚げ物(てんぷらなど)などの火災の危険がある料理をすることはできませんでした。 そのほか、犬やネコをつないでおくのも、わすれてはならないことでした。 大名は鷹(たか)を連れていることがあるので、もし、その鷹をきずつけるようなことがあったら、 大問題になるからです。もちろん本陣でも、これらのことにじゅうぶん注意することがたいせつでした。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その4 「宿場(しゅくば)」

大名を泊めるために宿場はどんなことをしたのでしょう?その2

宿場町に大名行列が到着すると、本陣の主人や宿場の主だった人々が、 宿場の入り口で正装(しっかりとした着物を着ること)して行列を出迎えました。 行列は宿場の人々を案内役にして宿場に入ってきました。 ただ、宿泊を予定していた行列が、何かのつごうで宿場を通りすぎてしまうこともありました。 大雨になって、川止め(かわどめ・川の増水で渡ることができず、足止めされること)になり、 予定していた日に宿泊できなくなる、日程のおくれをとりもどすために、 次の宿場まで急いで行ってしまう、などということはけっしてめずらしいことではありませんでした。 こうなると、せっかく準備をした宿場は大損害をうけることになります。 そこで大名は、補償金(ほしょうきん)をはらうのがふつうでした。 これをはらわないと、次には大名側が予約の手紙を出しても、とめてくれない宿場がありました。 それでも、補償金をはらわなかったり、額が少なかったりして、争いがおこることがありました。 補償金の交渉(もらえるように頼むこと)のために、 本陣の主人が行列を100Kmも追いかけた、などという話も残っています。

はくぶつかんこうざtopへ

gb 吉原宿 その5 「所替(ところがえ)と名所」

名所・左富士はどうしてうまれたのか?

徳川家康によって政治の中心が江戸におかれると、江戸と各地を結ぶ街道の整備が行われました。 吉原宿には慶長6年(1601年)に伝馬朱印状が出さることから、この時に、東海道の宿場として指定されたものと考えられています。 慶長6年のころの吉原宿の位置は、現在の元吉原地区にありました。しかしその付近は、風水害の多い場所だったため、2度の 所替(宿の移動)を経験しています。現在の吉原商店街の位置に宿が置かれることになったとき、 それに応じて東海道筋も変わり、 海沿いの道から内陸へと北に折れることになりました。 その途中、江戸から京都へ向かうと常に右に見える富士山が突然左に見える場所ができ、 浮世絵にも描かれた名所・左富士がうまれることになりました。

はくぶつかんこうざtopへ

gb ディアナ号遭難 その1

流された図 江戸時代に日本は「鎖国」といって外国との貿易などを行っていませんでした。 ところが、江戸時代のおわりごろ、アメリカのペリー提督(ていとく)がやってきて、 日本に開国を求めました。それからというもの、外国の船があいついでやってきてとうとう 日本は開国をしました。富士市にも外国船とかかわる事件がおきました。 それは、田子の宮島沖でのロシアの軍艦「ディアナ号」の沈没です。 1854年(嘉永7年)ロシアの軍艦ディアナ号が伊豆の下田に入港し、 外交使節団代表プチャーチン提督が下田奉行(しもだぶぎょう)と 和親条約(わしんじょうやく・日本とロシアがなかよくするための条約)を結ぼうとした時に、 大地震がおきたのです。下田の町は津波によって全滅に近い大被害をうけ、 ディアナ号も岸壁にぶつかってひどくつぶれてしまいました。 そこで、その修理のための伊豆半島の反対側の戸田までディアナ号を移動させようとしましたが、 運悪くとちゅうで嵐にあい、宮島沖まで流されてしまいました。 座礁(ざしょう・海の水でかくれて見えない岩などに、船が乗り上げてしまって動けなくなること) したようすを見ていた田子の漁師たちは、 ディアナ号の乗組員たちが小さなボートで岸に避難するところを、命がけで助けにむかいました。

はくぶつかんこうざtopへ

gb ディアナ号遭難 その2

ディアナ号 ロシアの軍艦(ぐんかん)ディアナ号がしずんだ1854年ころは、 日本は「鎖国(さこく)」といって、外国との貿易(ぼうえき)をやっていませんでした。 ですから、日本人が外国の人とかかわりあうことも禁じられていました。 しかし、ディアナ号が沈みかけ、乗組員たちの命があぶないところを見過ごすわけにはいきません。 宮島の漁師たちは、自分たちも地震で大きな被害をうけたのですが、 目の前の人たちの命を救うために救助にむかいました。 自分の体につなを結びつけ、ロシアの人たちが乗っているカッター(ボート)が、 大波にもまれながら岸に着くやいなや、すばやくボートをつかみ、乗組員たちを岸に助けあげました。 その後、ディアナ号と陸の間につなをはり、カッターで何回も往復して人と荷物を運びました。 ディアナ号には500人ものロシア人がのっており、おまけに海は大荒れでしたから、 全部の人と物を運びおわるのに3日もかかりました。 ロシア人の記録によると、宮島の人たちは、ロシア人のためにかんたんな納屋を作り、 雨や風をふせげるようにしたり、毛布、綿入りの着物、はきもの、米、酒、蜜、魚、卵などを 持ってきたりしました。その後も宮島の人達は、 ロシア人のために米をもちよっておかゆにしてあげました。 このように、宮島の人々の温かい心にささえられ、 ロシアの人たちは無事自分の国へ帰ることができました。 このディアナ号と宮島村の人たちとの交流を記念して、 平成5年(1993)広見公園に銅像が建てられました。 博物館にはこのディアナ号の模型や錨(いかり)、救助のときのようすをかいた絵がありますから、 ぜひ見に来てくださいね。

はくぶつかんこうざtopへ