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調査研究報告№2

雨乞い曼陀羅伝説を語る社会

富士市立博物館学芸員  荻野 裕子

はじめに

富士山の周辺には、日蓮にまつわる伝説が流布している。これは日蓮が晩年に身延山へ隠棲したことが関係しており、鎌倉から身延山への経路や身延山周辺において伝承地が見いだされる。
このような高僧にまつわる伝説は、弘法大師をはじめとして蓮如、行基などにも見られ、ことに弘法大師伝説は全国的に流布して民俗学の研究上重要な対象として取り上げられてきた。この弘法大師伝説がダイシ伝説として捉えられ、超宗派的な性格を持つことが指摘されているのに対し、一方日蓮伝説はその伝承地の多くが日蓮宗信仰圏に見られるようである。日蓮宗の総本山である身延山久遠寺を間近に控え、日蓮宗寺院が多数を占めるこの富士西南麓では、高僧伝説の主人公は日蓮である。
小稿で対象とする富士市神戸の日蓮伝説は、身延隠棲への経路上の出来事ともいわれ、日蓮が雨乞いにおいてその霊力を発揮する奇蹟譚である。その構成は弘法清水伝説に類似しているが、宗派的な色彩が濃いことと伝説を由来とした年中行事が行われている点に特色が見いだされる。日蓮が雨乞いの呪物として用いたと伝えられる曼陀羅の掛け軸が存在し、年に一度開帳されるのである。これが雨乞曼陀羅ともオマンダラサンとも呼ばれる行事である。
近年の伝説研究には、伝説を口承文芸の範疇にとどまらせず、伝承地から切り離さずにそれを伝承する社会や伝承者との関係において読み解こうとする方向性が見られる。その傾向は現在一定の評価を得ていると思われる。中西裕二は伝説研究を「同時に語られる対象の分析であり、対象を有意味にする文脈(世界観・歴史観)の研究であり、それらの間に存在する意味の相互作用・解釈過程の研究でもあると言える。」と述べている。この日蓮の雨乞い伝説は、それを由来とする年中行事がムラを単位として行われてきたこともあり、ムラによる伝承という性格が強い。その場合、中西がいう相互作用や解釈過程は多様性を生み出しにくい側面があるのではないかと予想される。小稿ではこのような視点に留意しながら、日蓮の雨乞い伝説とそれを由来譚とする年中行事が、それを伝承してきた共同体の社会においてどのような意味を持ってきたのか、また伝説と共同体がどのような関係を持つのかを考察することを目的とする。


1.調査地の概況

雨乞い曼陀羅伝説を伝承している集落は、静岡県富士市神戸2丁目、旧地名では曼陀羅という。伝説が地名の由来譚でもある。神戸2丁目は富士山の南麓標高約150m付近に位置し、 富士山北東麓の御殿場方面とを結ぶ旧十里木街道沿いにある。
図1  調査地の位置 図1 調査地の位置 国土地理院 5万分の1地形図「富士宮」から

戸数は「はじめは7~8軒」と伝えられ、昭和10年頃でも13軒ほどに過ぎなかったがその後急激な増加を見せ,現在は120戸を数える。長期にわたってこの伝説を伝承してきた家々によれば、地域を表現する名称として神戸2丁目よりもこの曼陀羅の方が多く用いられている。このため本文では以下、戸数急増以前のムラとして捉えられる曼陀羅地区の状態を曼陀羅地区、ムラと表記し、神戸2丁目と表記した場合には現在の拡大した集落とその共同体を指すものとする。
 この地域における人口急増を可能にしたのは、昭和30年の上水道敷設だった。この時期から富士山南麓の集落には次々と上水道が敷設されて行くが、それ以前は富士山の溶岩と火山灰の上に位置する という立地条件上、飲用水、生活用水の確保に苦心する地域がほとんどであった。川は溶岩伏流となるため涸れ川であり、地下水位が低いために井戸の掘削も明治以前には難しかったようである。このような地域性は、溶岩伏流の地下水が自噴する低地での生活者から「水無し村」と表現されてきた。
昭和30年頃まで生活の術はほとんどが農業だが、水田はなく畑作地帯であり陸稲や麦、小麦、里芋などを栽培していた。畑はクロボクと呼ばれた黒い火山灰土に覆われ決して豊かな土地ではなく、その表土が浅いところは乾燥しやすいという。このためとくに夏の作物である陸稲は8~9月に日照りの被害を受けることが多く、収穫量の多い年にはモミを蓄えてテリドシ(日照りが多い年)に備えたという。大正13年には毎年の開帳日以外に曼陀羅の掛け軸を開帳してムラを挙げての雨乞いが行われており、伝説が成立してもおかしくない自然環境にあったといえる。
集落内には旧十里木街道沿いに、地区の信仰的・社会的な中心施設である曼陀羅祖師堂がある。現在の祖師堂は昭和58年に建てられ、神戸2丁目集会所と老人憩いの家を兼ねており、その建物の前には伝説に関わる楠と地名の由来を刻んだ題目塔がある。祖師堂のほかには神社などの信仰的施設は見られない。
昭和10年頃に存在した13軒のなかでは、鈴木姓が7軒を占める。そのなかの1軒が伝説に登場する鈴木F家である。このF家と、アブラヤと呼ばれる鈴木S家が東西に並んでいるが、それより北側は神戸の下村(現在の1丁目)となるため、鈴木両家の分家はそれぞれ本家から南へと輩出されている。分家の輩出時期は昭和初期ごろという家が多く、まだ初代か2代目という家が多い。これらの新しい分家を除くと、曼陀羅地区の戸数は大正末期までは7~8軒を数えるのみである。


2.雨乞い曼陀羅伝説とオマンダラサン

(1)語られる「雨乞い曼陀羅伝説」

 小稿で取り上げる伝説を鈴木S家から昭和初期に分家したT氏の発言によってまとめると次のようになる。
「昔日蓮さんが修行をしてきたとき、この土地で水をもらおうとしたが、水が貴重だったため   に人は水をくれなかった。そこを鈴木F家の先祖のおばあさんが水をくれたという。 また曼陀羅地区の人々はそのとき雨乞いをしていた。それで日蓮さんはそんなに水が貴重な   らと、一筆書いて楠につるした。日蓮さんが去ってすぐに雨が降った。その書いた軸が雨乞い   曼陀羅。それからここを曼陀羅というようになった。    その後軸のことは忘れられていたが、F家で不幸が続くのでみてもらったところ、屋根裏に   軸があった。それでその軸を三ツ倉の法蔵寺(日蓮宗)に預けたという。 このため祭りの時には法蔵寺から曼陀羅の軸を箱に入れ、行列になってこの祖師堂にまで持   ってくる。直々にお賽銭を上げ、またこの箱の下をくぐると縁起が良いという。」

伝説の話型はムラのなかでほぼこのような形で一定しており、多少の詳述の違いは聞かれても家、または個人による異伝を聞くことはなかった。曼陀羅という地名がこの伝説に由来していることも異口同音に語られている。集落の中には地名の由来譚として伝説の内容を刻んだ題目塔が存在しており、これが人々の目に触れやすい祖師堂の前にあることが、伝説の内容がほぼ一定することに大きな役割を果たしているように思われる。筆者は初めて調査に出かけた際、「あの題目塔を見たか、あれに書いてある。」と何人もの方々に教えていただいた。それだけ“雨乞い曼陀羅伝説を刻んだ題目塔”の存在が浸透していることが窺える。この題目塔と話型の固定化については、後ほどさらに詳述することにする。
 一般に流布している雨乞い曼陀羅伝説よりも、多くのモチーフを含む内容を聞くことができた。伝承者は鈴木Mさん、鈴木F家の古い分家に大正6年に生まれた女性で、昭和初期にさらに分家に出ている。その生家の敷地に日蓮が曼陀羅の掛け軸をかけた楠があったという(現在曼陀羅祖師堂の前にも楠があるが、これはこの女性の家の楠を接いだものと伝えられている)。この女性による雨乞い曼陀羅伝説は次のとおりである。
「みすぼらしい姿のお坊さんが、ちょうどムラが日照りのときに鈴木F家に一夜の宿を貸してくれ とやってきた。その家のおばあさんが泊めてあげた。そのときその家のおじいさんが、鮒か何かの 魚を釣ってきた。そばの下味にこの魚を入れて食事に出し、お坊さんが食べた。そのあとこの魚の 骨をお坊さんがどうかしたら、泳いだという。そこでそんなことができるなら、今、日照りで困っ ているので、雨を降らせてくれと頼んだ。翌朝、当時7~8軒だったムラの家々から半紙を一枚ず つ集めて、お坊さんがそこへ筆で点々を打った。それをつなぐと“南無妙法蓮華経”の文字になり、 これを楠にかけて題目を唱えれば雨が降ると言って去っていった。そのお坊さんが一色(曼陀羅地 区に隣接する集落)のK家のあたりへ行ったとき、大雨が降ったという。このお坊さんが身延山へ 行く途中の日蓮さんで、それで“雨乞い日蓮さん”と言った。
 F家ではこの“南無妙法蓮華経”の紙を屋根裏へ置いたらしい。  そのあとF家で不幸なことが続くのでみてもらったら、「ありがたいものが粗末にしてある」と言 われた。屋根裏に置いてあったためらしい。それで“南無妙法蓮華経”のところ(日蓮宗)の三ツ 倉の法蔵寺へ預けた。それを毎年開帳してもらうことになった。」

雨乞い曼陀羅伝説の内容を知ると、この伝説が時間的に二段構造を持っていることがわかる。まず雨乞いを行っていたという時間があり、その後どれほどの時間が超過してからか、曼陀羅の掛け軸がF家で再発見されるのである。二段階目は現在行われている年に一度の掛け軸開帳の起源を語り、その時間はそのまま現在につながっている。

(2)年中行事としての雨乞い曼陀羅

曼陀羅の掛け軸の開帳日は日蓮が雨を降らせたという6月12日であり、旧暦で行われてきた。近年はその日に近い土曜日に行われるようになっており、平成8年は7月20日であった。この開帳の行事はオマンダラサンと呼ばれ、掛け軸もまたオマンダラサンと呼ばれているが、小稿では便宜上行事のみをオマンダラサンと表記する。
伝説は昔話と異なり、「語る季節とか、時間とか聴き方に規制はなく」といわれているが、雨乞い曼陀羅伝説は毎年行われるオマンダラサンの行事によって、語られる場と時間を確保してきた。さらに、オマンダラサンがムラの年中行事として行われることによって、ムラ自体が伝説を語る明確な担い手にもなってきたのである。
 大正末期には曼陀羅地区の戸数は7~8軒が確認されるが、伝説上の出来事が起こった当時も同じ戸数で語られており、当時はムラ全体でオマンダラサンを行っていたのではないかと住民自身が捉えている。昭和初期になって戸数が13軒へと増加し、上曼陀羅・下曼陀羅という家々を連合する単位が生じているが、この時の集落の拡大は分家が輩出されたことによるものであり、従来の地縁的結合の上に血縁的結合が加えられ、曼陀羅地区というムラはなお従来のあり方を保っていたと思われる。
 現在は増加した戸数を含めてほぼ神戸2丁目という行政単位によって担われるようになった。現在神戸2丁目には約120戸の家々を組織する最小単位として組が10組あり、アパート住民などを除く8組がオマンダラサンの運営に携わっている。8組のうち2組ずつがその年の当番組として祖師堂の準備、法蔵寺への掛け軸の送迎に当たる。組は戸数の増加に伴って組織されたものであり、現在は神戸2丁目を構成する社会的な組織として毎月の寄り合い(五日講という)を行い、回覧板の回覧、ゴミ収集当番の単位になっている。

写真1 祖師堂 写真1 祖師堂

組とともにオマンダラサンにおいて重要な役割を果たすのが世話人である。世話人は現在5軒あっ て世襲されているが、F家以外の4軒は後から加わったのであり、本来F家のみが世話人であったという伝承はほぼ周知されている (世話人1軒が転出するまで世話人は6軒だった)。現在は5軒 が毎年交代で世話人を務めている。世話人は祖師堂を管理する役 目(建設や修繕に当たっては費用のほとんどを工面する)とともに、オマンダラサンの当日には三ツ倉から来る法蔵寺の住職や檀 家の代表などを自宅で饗応する役目(その費用は世話人の家で負担する)がある。このため世話人は「財産のある家でなければできない」といわれている。F氏によれば曾祖父の代に一時家が疲弊し、また当時は50人ほどの人々を三ツ倉から迎え接待費がかなりかかるために世話人を増やして交替制にしたのだという。また世話人は当日の朝、一升餅を二つ搗き、一つは祖師堂に供え、一つは法蔵寺の住職に持ち帰らせる。
次にオマンダラサン当日の流れを記してみよう。早朝に当番組による祖師堂の清掃や飾り付け、世話人による餅の準備などが行われたあと、夕方に三ツ倉の法蔵寺に預けられた掛け軸を迎えにいく。掛け軸の送迎は当番組の役割であって、現在は車によるが昭和60年頃までは徒歩によった。また昭和30年頃までは法蔵寺の一行が曼陀羅地区に向かう行程の際、掛け軸を入れた長櫃の下をくぐると「縁起がよい」、「夏病みをしない」といわれ、皆くぐりにいったものだという。昭和初期までは世話人は羽織袴姿で、迎えに行く人々はそれぞれの家紋が入った弓張り提灯を灯したという。
 掛け軸とともに法蔵寺の一行数人は世話人の家に迎えられ、現在は夜9時頃の開帳まで世話人宅で饗応されて過ごす。同じ時間帯、祖師堂では神戸青年団(昭和50年頃からは近隣町内も含んだ7町内で組織)による太鼓や演芸が披露される。昭和60年頃までは開帳は深夜0時という時間であった。
いよいよ開帳の時間が迫ると、掛け軸を持った世話人と法蔵寺の一行は、当番組が題目を唱え、団扇太鼓を叩く行列とともに祖 師堂に向かう。祖師堂には十二日講の女性達をはじめ開帳を見ようという人々が詰めかけ、題目を唱える声と太鼓の音のなかで、 伝説によって語られる「雨乞い曼陀羅の掛け軸」は開帳される。

写真2  曼陀羅の掛け軸の開帳 写真2 曼陀羅の掛け軸の開帳

わずかな時間の開帳の後、その夜のうちに掛け軸と法蔵寺の一行を当番組が送り、三ツ倉に戻る。
翌日祖師堂では「お勘定」のために各組の組長が集まり、オマンダラサンにかかった費用を一戸当たり割り出す。上・下曼陀羅の区分しかなかった当時は、この時13軒ほどの全戸が集まったという。この際、祖師堂に飾ったハナ(造花)は各戸に配られ、家々ではダイジンサン(神棚)に一年間飾っておく。また世話人が搗いて祖師堂に供えた餅は切り分けられ、各戸に配られる。
オマンダラサンの行事について概観したが、年中行事としてオマンダラサンを捉えたとき、その時間は季節が移り変わり、本格的な夏に向かう時であることに気がつく。この時期は新暦では7月20日前後にあたり、畑作地帯である曼陀羅地区にとっては、さつまいも、オカボなどの一番ゴウサクが終わって一段落する農閑期にあたっていたという。ちょうどこの時期は梅雨が明けるが、オマンダラサン当日は「必ず三粒以上の雨が降る」と口々に語られている。曼陀羅地区にとってこれからが日照りを恐れる時期であることを考慮すると、伝説のなかで雨乞いの呪物として効力を発揮した曼陀羅の掛け軸の開帳には、雨の保証を求める人々の心意が働いていたのではないかと思われる。
また曼陀羅の掛け軸を入れた長櫃の下をくぐると「夏病みをしない」という信仰は、夏越しの祓いである茅の輪くぐりを想起させる。年中行事として行われるオマンダラサンは、曼陀羅地区の人々にとっては季節が交代する時間的な節目であることが意識されてきたのだろう。ムラの時間的な更新の際に、雨乞い曼陀羅伝説は語られてきたのである。またその際にかつてF家が毎年果たしてきた役割を思うと、F家に対するムラのなかでの認識はどのようなものであったのかが気になる点として浮かんでくる。


3.伝説の説話化・流布と教化者の介在

雨乞い曼陀羅伝説は、おもに曼陀羅というムラ社会において過去から現在へとタテに伝承されてきた伝説である。しかし伝説の形成には「伝説的心意を話型として説話化し、伝播に携わったひと・集団」が大いに関与していることが指摘されている。雨乞い曼陀羅伝説においても、近世後期にはこうしたムラ社会内部ではない者の関与が窺えるのである。
さて伝説のモチーフのなかで際だっているのが、雨乞いの呪物として用いられる曼陀羅の掛け軸と“南無妙法連蓮経”の題目であり、そこに日蓮宗の宗派的な色彩の強さが窺える。
日蓮が奇跡の呪物として曼陀羅を用いるという点での類話は、隣接する沼津市にも見られる。沼津市我入道の曼陀羅ケ原には曼陀羅松があり、日蓮が津波よけの祈願として曼陀羅をかけた松だという。このほか日蓮伝説にはしばしば曼陀羅が登場し、曼陀羅が日蓮宗において寺院や僧から民間に付与される信仰道具であることを考えると、伝説の話型が整えられ、説話化されていった背景には日蓮宗の民衆教化者が介在したことが想像される。事実、この雨乞い曼陀羅伝説が流布した背景には、日蓮宗寺院の活動が見え隠れするのである。
そのひとつが、既に紹介した祖師堂の前に存在する題目塔である。この題目塔が、伝説の話型の一定化や伝承の媒介物としての役割を果たしているらしいことは既に述べた。ここでその題目塔の碑文を紹介しよう。
 碑文によれば施主は吉原宿の賀藤軍太夫清門(この人物については未詳)であり、彼が読誦百部の成就を記念して建立した題目塔である。正面に五百遠忌とあるが,題目塔の建立が日蓮の五百遠忌(天明元年・1782)に近い安永八年(1779)である。碑文には“日蓮が富士山で修行した折り、この地において雨を祈った霊場であるが故に曼陀羅という”との内容が刻まれ、日蓮による雨乞いとそれによる地名の由来が明らかにされている。この碑文の右側面には現在曼陀羅の掛け軸を保管する法蔵寺と時の住職の名前(日勤)が刻まれている。

写真3 祖師堂の題目塔 写真3 祖師堂の題目塔

写真4 刷り物の掛軸 写真4(左)は富士市大淵(曼陀羅地区の北西に広がる地域)の旧家で所蔵されている掛け軸である。発見されたのは大淵であるが、F氏の祖父の代までは 雨乞い曼陀羅の信仰圏は富士宮市や富士市中里、富士岡(曼陀羅地区から東へ約3.5㎞)方面まで広がっていたという。内容は雨乞い曼陀羅伝説を伝 える絵と文章であり、確認されているのは今のところこの一点だけだが、刷り物であることからかなりの数は出回ったものと思われる。版元は法蔵寺の 二十二世日勤である。掛け軸の文章は次の通り。

    「古翁傳曰   日蓮大上人  御通行之砌   此所之松尓  掛大漫茶羅
   祈雨□地巴  依之其村名   漫荼羅云云
         駿州 妙富士山 廿二世 日勤 三倉 法蔵寺」

掛け軸による書承の伝説では「大漫荼羅」をかけた木が松であるが、やはり日蓮による雨乞いがこの地で行われたために「漫荼羅」という地名になっ たことを記し、ほぼ口承による伝説に相当している。

ここで注目したいのは法蔵寺の日勤という僧であり、この人物の名は既に紹介した安永9年の題目塔にも見られるのである。題目塔の碑文と掛け軸に 写真4刷り物の掛け軸刷られた文章の構成は非常に似通っている。法蔵寺によれば二十二世日勤は文化4年(1807)に亡くなっているが、ちょうど日蓮五百遠忌の時代に住職を勤めた。法蔵寺の北に「帳塚さん」と呼ばれる享和2年(1802)の題目塔があるが、これは天明年間に年貢徴収に反対して処刑された落合村の名主を供養するために建立されたと伝えられており、ここにも題目の横に「発起願主」として日勤の名が刻まれている。
こうした点から当時この地域に日勤による日蓮宗の布教活動が展開されたことが窺われるのである。 日蓮伝説には在地の宗教勢力との対決や、既成の霊力への優越を説くと解釈されているものがある。雨乞い曼陀羅伝説の場合、在地の宗教勢力が登場することはなく、実際曼陀羅地区のほとんどの家は現在も浄土真宗常願寺の檀家であり、日蓮宗の檀家は一軒もない。しかしながら曼陀羅地区において信仰の方向性は明らかにオソッサン(日蓮)に向いている。
曼陀羅地区において祀られる神仏には、祖師堂のほかに山の神と水神がある。小さな石祠である山の神はムラ全体で祀られていなかった時期もあり、水神を祀る井戸が掘られたのは大正末期のことだった。曼陀羅地区の集落より北には荒神社があるが、ここは神戸1・2丁目により共同で祭祀されており、曼陀羅地区がムラという結集性を持って長く祀ってきたのは祖師堂のオソッサンだけだということがわかる。このほか曼陀羅地区には昭和30年ごろまで続いた観音講をはじめ、山ノ講、子安講、秋葉講があったことが聞かれるが、現在まで継続しているのは十二日講のみである。十二日講は年齢的に姑世代の女性達による講であり、日蓮のお逮夜(命日の前日)である十二日に毎月行われている。大正末期に現在の祖師堂の前身が建てられてから場所は祖師堂であり、堂の奥に安置された厨子の扉を開いて日蓮の木像を拝み、団扇太鼓を叩きながら題目を唱えるのである。大正末期には講員の家に重病人があると題目を唱えることもあったという。また葬式の際、祓いの膳も済んだ後で手伝いの男性が誰か一人、茶碗を箸で叩きながら題目を唱える習慣が今でも行われているという。
こうした信仰の現状を概観していくと、曼陀羅地区においては信仰上日蓮宗が在地勢力である浄土真宗を凌駕しているとも言える。
以上のような点から、曼陀羅地区にはおそらく日勤を中心とした日蓮宗の民衆教化者の介在があったことが窺われ、雨乞い曼陀羅伝説もその過程のなかで話型が整えられて流布し、伝承内容が均質化されたことが窺えるのである。この状況は今でも繰り返されていると言える。オマンダラサンの当日、法蔵寺の住職は開帳の後雨乞い曼陀羅伝説の由来を祖師堂に集まった人々に対して語るが、その内容は自然と宗派的な色彩の強いものであり、それに添った内容によって伝説を語る話者も少なくないのである。


4.雨乞い曼陀羅伝説が語るもの

(1)ムラにおける口承の伝説

  前節において雨乞い曼陀羅伝説には日蓮宗の民衆教化者が介在した可能性があることを指摘した。そのうえで曼陀羅地区の人々は今日まで雨乞い曼陀羅伝説を語り継いできたが、その口承による伝説では、題目塔の碑文や日勤による刷り物よりも多くのモチーフが登場し、より豊かな伝承内容を聞くことができる。宗教的な影響を受け入れつつ、その枠組み以上に伝承していく人々が語ろうとしたものは何だったのだろうか。このような観点から、雨乞い曼陀羅伝説を伝承するムラにおいてその伝説が持つ意味を探ることができると考えられる。
まず雨乞い曼陀羅伝説におけるモチーフを拾い上げてみよう。前節において紹介した日勤による刷り物などのなかにはなく、曼陀羅地区における口承の伝説において登場するモチーフは、「雨乞いをしていた」等と語られるムラの状況と「F家」、「楠」である。
「楠」は日蓮が曼陀羅の掛け軸を掛けた木として語られているが、ムラのなかでも柿や松だと語る人もいる。日勤による刷り物などのなかに登場する木は松であり、現在祖師堂の前には楠の巨木があるものの、このような状況から見て意外に樹木信仰的な要素は低く、記念物としてもあまり重要視されていないようである。
一方「雨乞いをしていた」というムラの状況は、「水が貴重だった」、「日照りで困っていた」、「そのためにはじめは日蓮に水を分けなかった」などの言葉の中で詳細に説明されている。題目塔においても刷り物の掛け軸においても雨を祈ったのは日蓮であるとだけ記され、その前段階として口承の伝説に登場する「日照りで困って雨乞いをしていた」曼陀羅地区の人々は登場しないのである。雨乞い曼陀羅伝説を伝承し、それを由来とする地名の上に生活してきたムラの人々にとっては、伝説とムラ(伝説を語る主体である自分たち)との関わりこそ語る必要のあるものなのだろう。
そして「F家」も日勤による刷り物などの中にはまったく登場しない存在である。しかし曼陀羅地区で語られてきた伝説においては「F家」は雨乞いに先立ってまず日蓮を歓待する家であり、「曼陀羅の掛け軸」が再発見される場所でもある。雨乞い曼陀羅伝説において2度登場し、その語られる位置の重要性が窺える。また伝説の中で重要な存在としては、「曼陀羅の掛け軸」を挙げることができる。降雨の奇蹟を招いた「曼陀羅の掛け軸」はまさに信仰の対象であり、現在においても伝説の記念物として伝説およびそれを由来とするオマンダラサンの存続に大きな役割を果たしていると見られる。この「曼陀羅の掛け軸」は、一度「忘れられる」ことによって「F家」で再発見されるが、そのことによって伝説のなかではオマンダラサンにおける「F家」の役割の理由を語る道具としても働いていると言えるだろう。
以上のように雨乞い曼陀羅伝説においては、ムラとそれを構成する一軒の家が、つまり伝説を語る主体が語られる対象となって取り上げられていると指摘することができる。

(2)語られるムラ社会

雨乞い曼陀羅伝説を通じて伝承する人々が語ろうとしているものは、曼陀羅地区というムラ自体ではないかと前節において指摘した。
まず伝説の中では「水が貴重」で、「日照りで困っている」という集落の自然環境が語られている。記述したとおり曼陀羅地区は昭和30年の上水道敷設まで飲用水・生活用水の確保にも悩まされてきた「水無し村」である。ほんの数十年前まで、伝説のなかで語られる集落の自然環境は、伝説が語られる時点に生きる人々に共通する認識であった。現在でも年輩者にとっては実体験である。このような時間を超えて共通の感覚を抱くことができる自然環境を語ることによって、伝説上の地域と現在の地域は同一なものとして捉えることが可能になっているだろう。
伝承する人々は、さらに「雨乞いをしていた」ことを語る。日照りは広い地域に同様に起こる現象であるから、雨乞いはムラのあるいはより広い地域の人々による共同祈願である。さらに鈴木Mさんが語る伝説では、当時7~8軒の家々があり、それらの家々が半紙を集めてつないだという行為も語られ、すでに共同祈願や「半紙を集めてつなぐ」共同作業を行う、ムラとしての結集性があったことが示されているのである。
 そしてこのような地域は伝説によって「曼陀羅」と名付けられ、一定の固有な空間が確保されることになる。雨乞い曼陀羅伝説は地名の由来を語ることが重要な役割でもあり、この点だけは口承、書承にかかわらず何においても登場して相違なく語られている(近世後期の地誌である『駿河記』(文政3年・1820)『駿河志料』(文久元年・1861)においても、曼陀羅の地名だけは記されている)。
 このように語られている伝承内容に留意すると、雨乞い曼陀羅伝説を通じて伝承する人々が語ろうとしているものは、「曼陀羅」の地名によって集約される、自分たちの生活が展開する空間と所属するムラ社会ではないかと考えられる。この伝説に起源を求めるオマンダラサンという年中行事が、ムラを担い手として行われてきたのもこのためではないだろうか。 
 この伝説は異人歓待譚でもあるが、この伝説の場合、異人が漠然とした神々などではなく、日蓮という実在の人物であるために、伝説を語り、また語られる人々は限定された時代認識を抱くことになる。日蓮が身延隠棲の道中にあったのは、文永11年(1274)のことだった。このような知識の普及は後のことであろうが、日蓮宗の宗祖としての存在は捉えられていたことだろう。そのころすでに自分たちが生活する「曼陀羅」という空間と社会が存在し、そしてそれは現在まで連続していると解釈することが、日蓮の登場によって可能になっている。
なぜこの伝説が長い間語られてきたのかを考えると、様々な伝説においてその役割が指摘されている通り、伝承する人々が自分たちの生活に対する“歴史”を伝説の中に求めてきたからではないかと思われるのである。このムラの開村伝承は聞かれなかったが、「日蓮さんの頃からこのムラはあった」という言葉が曼陀羅地区の人々からは口々に語られる。民衆教化者による一方向的な影響だけでなく、日蓮はその宗教的権威と生活に浸透した信仰から、ムラの“歴史”を語る端緒としてムラの人々にとっても非常に活用しやすい媒体であったことだろう。
梅野光興は、伝説を「民俗社会に特有な記憶の方法である。」と捉え、民俗社会が「過去の記憶をも共有しようとするときに」伝説という方法が使われるのだと述べている。なぜ過去をも共有しようと願うのか、それは集団としての歴史を相互に確認することによって、現在共有している社会を維持しようと願うからではないだろうか。
それでは、この伝説がすでに成立していたと見られる近世後期の曼陀羅地区はどのようなムラだったのだろうか。曼陀羅は近世村としては神戸村に属していたが、集落の立地がほかの神戸地区からは 離れており、現在の聞き取り調査においてもムラとしては別個の存在であることがわかる。残念ながら、神戸村自体の近世文書も現時点では所在が明らかでない。曼陀羅地区において、何時の時点を指すのかは不明だが伝説上で語られる時点から昭和初期に至るまで戸数の増加が見られない事実は、分割する財産や自然環境の限界を示していると考えられる。
 天保郷帳に見る神戸村(ムラとしては曼陀羅を含み4つ)の石高は94石5斗4升1合であり、神戸村自体その規模は大きくはない。大正初年の編纂と見られる『今泉村誌』には曼陀羅地区は一色の新開地であると記されており(史料が数量的に乏しいが、管見の及ぶ範囲において曼陀羅の地名の初見は安永8年の題目塔である)、そのことからもともと耕地が少なかったのではないかとも推測される。 聞き取り調査においてもムラの共有林や共有地の存在はなく、薪や茅などの採取は少量は山林を所有する家(後述するS家)に取りに行き、主には遠隔地の山林まで出かけたという。さらに同じく『今泉村誌』によれば、この土地は富士山麓の平野で耕耘の便はよいが川も井戸もないために村落の発達が遅れていたと記され、文化4年(1807)に至って飲用水確保のための引水工事が領主東泉院によって行われたことがほぼ明らかになっている。このような経済的自然的状況を鑑みると、曼陀羅地区では長年ムラの戸数を制限していたと考えてもおかしくはないかもしれない。
このような戸数の少なさは、その分生活を運営していくための結束力を必要としたことだろう。現在聞き取れる範囲での共同作業は、正月と盆前のミチコシリャー(道普請)や屋根の葺き替えをテンダイアウ(手伝い合う)作業、またムギハライにおけるイイが聞かれたが、「とにかく家が少なかったから一緒にやんないと」という言葉はしばしば曼陀羅地区の人々が語るものであった。しかし共有林や共有地が存在しないこともあって、ムラの共同作業は少ない印象を受ける。氏神である荒神社は集落の外部にあって単独での祭祀ではなく、ムラの共有井戸が掘られたのは大正末期のことである。またムラを構成する家々の間には、既述したとおり本分家関係は少なく、また分家の輩出時期が比較的新しいためか周辺他地域ではよく聞かれるイットウ(本分家関係にある家々を指す)という呼称もあまり用いられていない。逆説的に考えると、このような社会的結合状態が希薄な傾向にあるがゆえに、ムラの時間的更新としてムラを単位としたオマンダラサンの運営を行い、その内部の結集性の強化を図ったのではないだろうか。このためにムラ社会とそのムラ社会が長く持続してきた歴史について語る、雨乞い曼陀羅伝説が語られる必要性があったのではないかと考えられるのである。このような伝説の性格は、語られるムラ社会に対しての解釈が伝承者によって多様性を生み出すことが少なく、伝承内容をムラのなかで均質に保持させることになったと考えられる。さらにムラの年中行事によって伝説を語る統一された時間と場が提供されることは、伝説に規範力を持たせたであろう。雨乞い曼陀羅伝説に異伝がないのは、宗教的な影響と共にこのためと考えられる。

(3)伝説の中のF家

さてこのようにして語られてきたムラ社会であるが、その社会が平準なものでないことは、「水を 与えた」F家の存在によって明らかである。雨乞い曼陀羅伝説において「F家」が語られる際、その位置の重要性については先にも簡単に指摘したが、ここで詳しく検討してみたい。
鈴木Mさんによる雨乞い曼陀羅伝説には、ほかで聞くことができなかったF家について詳述される内容がある。それには魚の蘇生譚が加わっており、日蓮ははじめに魚を蘇生させる奇跡を起こすことによって自分の霊力を示す。まずその霊力を示した場所は鈴木F家であり、また日蓮の霊力をムラの共同祈願である雨乞いに活用すべく紹介したのは鈴木F家だということが語られているのである。この話者による伝承内容の背景には、楠があったと伝えられる鈴木F家の分家(屋敷の立地はF家に南接)に生まれたことが大きく左右しているだろう。
伝説の二段階目になると、曼陀羅の掛け軸がF家において再発見される。一段階目において曼陀羅の掛け軸はムラの共同祈願に対する呪物であることが語られているが、一旦F家で「不幸が続く」というサインが示されることによって掛け軸の所在が明らかになり、F家で所蔵されていたことがムラのなかで周知されることになる。誰に「みてもらった」のかは語られていないが、宗教者の介入が伏在していることは容易に想像される。
 三浦佑之は、何らかの事物が単なる物体ではなく伝説の「記念物」になるためには、そのきっかけになる出来事が必要だと述べ、とくに「共同体の場合には、その出来事が共同体のなかでいかに<確かさ=共同性>を持つかという点が問題になるはずである。」と述べている。三浦の言葉に従って雨乞い曼陀羅伝説におけるF家について考えると、「F家が日蓮を歓待し、その後掛け軸を所有していた」という出来事は、曼陀羅地区という共同体の中で共同性を持っていたのだと考えられる。F家は伝説を伝承していく人々を納得させることができた家だということになる。
次に年中行事であるオマンダラサンにおいて、本来はF家のみが世話人であったという伝承に基づいて、それまでF家が果たしてきた役割について考えてみよう。曼陀羅の掛け軸は曼陀羅地区に到着してまずF家に運ばれる。大正末期に現在の祖師堂の前身が建てられるまでは、世話人の家において開帳していたというから、世話人がF家だけだった時期は、毎年F家において開帳されていたことになる。伝説において日蓮や掛け軸と接点を持つのがまずF家であることと、似たような状況が復元されているように意識される。
そしてF家ではオマンダラサンの当日餅を搗く。曼陀羅地区は畑作地帯であり、日照りの被害を受けやすいオカボ(もち米)によってつくられる餅は貴重なものだったことだろう。この餅は祖師堂に供えられたあと、翌日はムラの各戸に配られる。
2節において、伝説上雨をもたらした掛け軸を開帳するオマンダラサンの行事には、雨の保証を求める人々の心意が働いているのではないかと述べた。ムラにおいてその窓口ともなるのがF家であり、さらに各戸にはF家で搗いた餅が配られる。餅が豊穣という象徴性を持つならば、ムラにとってはF家を通じて雨の保証とそれによる豊穣の予祝がもたらされるのだと解釈することができる。年中行事としてオマンダラサンが行われることによって、ムラのなかにおけるF家のこのような役割は毎年確認され、伝説が語られることによってその社会的位置は強化されたことだろう(こうしたムラの内部からの解釈とともに、F家の背景に外部からの宗教的勢力があってその社会的位置が保証されてきた点は留意を要する)。
雨乞い曼陀羅伝説とそれに由来するオマンダラサンは、日蓮による雨乞いの奇蹟を語りつつ、このようなF家の社会的位置づけを包含した曼陀羅というムラ社会の秩序を語ろうとしてきた一面があるのではないだろうか。口承による伝説では「F家」が重要な位置に置いて語られ、日勤による刷り物などにはまったく登場しないという事実は、「F家」がムラのなかで語られることに意味があることを示唆しているのではないだろうか。

(4)ゆらぐF家の社会的位置

しかしこのように解釈されてきたであろうF家の存在も、オマンダラサンの世話人が現在では5軒であることからも窺えるとおり、現在では少々異なる面が見られる。
 鈴木F家の屋敷は曼陀羅地区の中で高地に占められ、東西に横並びに並ぶ鈴木S家、S姓のオオヤ(本家)とともに、ムラの中では屋敷の背後に山林を所有する3軒のうちの中央に位置する。旧十里木街道からムラのなかに入る道が交差するT字路の突き当たりになり、道を挟んだF家の向かい側には道祖神が祀られている。大正末期までの曼陀羅地区の中では、唯一独立した形での分家(鈴木Mさんの生家)を輩出しているのである。しかし現在の聞き取り調査の範囲では、F家はとくにその社会的な位置や所有する財産において、伝説の中で語られるほどムラの中で傑出した存在とは言い得ないのが実状である。大正末期の家々のうち鈴木姓は4軒を占めるが、F家のシンヤ(分家)である1軒を除くとこれらの鈴木姓はイットウでもなく血縁関係にはない。分家に対してはともかく、とくに鈴木姓による強固な同族結合や、そのなかでF家が主要な位置を示してきたような伝承は聞かれなかった。また町内会長などの社会的に公の役職を歴任してきたような家の存在も、特に見当たらなかった。
ムラの中で最も経済力を有していたことが聞かれるのは、同じく世話人であるアブラヤと呼ばれる鈴木S家である。明治13年(1880)の『改正 反別地価取調帳』によれば、曼陀羅地区において土地の所有は圧倒的にS家がF家を上回っている。F家によれば、現在の当主の曾祖父の代に一時家が疲弊したためにオマンダラサンの世話人をほかに4軒増やして交替制にしたというが、その曾祖父とはこの明治13年当時の当主である。一方S家によれば、屋号の由来である油製造業を営んでいたのは明治13年当時の当主の父親であり、この時点では未だその父親名義の土地がほとんどである。S家が以前から存続していたとしても、この家がアブラヤという屋号で呼ばれるようになったことを考えると、幕末から明治初年に掛けて油製造業を営んでいた時期に、S家がかなりの興隆を見せたことが推測される。実際、明治13年の当資料には、畑1反4畝28歩をムラの中の他家からアブラヤが購入したばかりであることが記されている。逆にこの時期にF家は疲弊したと伝えられている。
オマンダラサンにおける世話人は、既述したように財産のある家でなければ勤まらないと言われ、かなり経済力が重視されていることがわかる。伝承が正しければF家以外の世話人は明治初年ごろから世話人を勤めてきたことになるが、これらの家はS家のほか、S姓の古い分家(S姓の本家でない理由はこの分家の方が今では財産があるからだと説明されている)、シンヤと呼ばれるW家(神戸のほかの地区からの転入と推測される)、ツジヤと呼ばれるU家(この家は現在9代目だという)である。また一時世話人は6軒であったが、この家は明治時代にほかの地域から転入しており、また転出して今はない。この家は医者であったという。このようにほかの4軒の世話人の状況を見ていくと、家筋の古さは必ずしも求められず、やはり経済力が重視されていることが窺える。
それ以前の段階において世話人に対して要求されたのが経済力だけであったのかどうかは窺えず、またF家が明治以前に経済的にどのような状況であったのかも資料が得られず不明であるが、伝説において語られてきた位置やF家がもともと世話人1軒であったという伝承は、S家との力関係がムラの中で逆転する以前の状態を指し示していたとも考えられる。その後もF家は伝説によって家筋の古さを主張し、その社会的位置を保ってきたと考えられる。『今泉村誌』には掛け軸を授けられた家としていまだ当主名も明記されている。F家にとっては、雨乞い曼陀羅伝説は積極的に語る価値がある伝説であろう。実際、現在でも十二日講がF家の主婦の到着を待って始められたり、オマンダラサンの打ち合わせや当日に神戸2丁目の役員に対してF家の当主の言葉が影響力を持っていたりする状況を筆者は見ることができた。指摘したとおり、ムラのなかで伝説が規範力を持っていたことが、このような社会的秩序を近年まで保たせてきたと考えられる。
 しかしその状況もゆらぎ始めているようだ。まずS家においては、雨乞い曼陀羅伝説について尋ねるとはじめは伝説にF家が登場せず、こちらで聞き出すと「曼陀羅の掛け軸をF家に預けたとか言うが、良く知らない」との答えであった。その傾向は同じく世話人であるS姓の古い分家においても見られた。またオマンダラサンの当日、神戸2丁目になってからの住民に伝説について尋ねた際には、日蓮を歓待し、掛け軸を授けられた家はアブラヤと呼ばれたS家だと混同している場合があった。新しい伝承者にとっては、日蓮と関わる家はS家だと解釈されうる余地が今の社会にあるのだろう。
現在F家の当主(昭和3年生まれ)が語る伝説は、はじめに紹介した伝説の内容とほぼ変わらない。 しかし彼の言葉には次のような内容が付け加えられている。
「水をくれたおばあさんの名前が米といった。当時平民は名字がないが、梅谷という名を日蓮さんがくれた。掛け軸に「梅谷米女」と書かれている。当時屋敷に梅があったらしい。それがいつ鈴木に変わったのかはわからない。日蓮さんが通った頃から、我が家はここに屋敷あったのだと思う。」
開帳の際、掛け軸に近づくことは許されないため(開帳時間は5分程度)「梅谷米女」の名は確認できなかったが、F家にとって重要なのは日蓮から名字をもらったという伝承であり、さらに当時すでに屋敷が現在地にあったとの解釈行為が行われている点である。現在の共同体のなかでは、後者はまだしも前者の点はあまり語られていない。何人かが「掛け軸には水を与えた鈴木F家のおばあさんの名前が書いてある。」とは語っているが、「日蓮から名字をもらった」という社会階層的な区分を示す伝承は、現在の共同体社会の中で共通の認識とは言い難い。伝承する社会の秩序が揺らぐことによって、F家が伝説の中で語られてきた位置は共同性を保ちにくくなり、その点に対する解釈が変わり始めていることが窺える。


5.共同体の変化と雨乞い曼陀羅伝説

調査地の概況において述べたとおり、曼陀羅地区というムラは昭和30年以降大きな変革を遂げている。昭和30年以後の戸数急増は、わずか40年ほどの間に戸数が約10倍になる結果となった。そのなかで旧来の曼陀羅地区は、オマンダラサンを運営するにあたり、担い手である共同体の拡大をそのまま受け入れ、ほぼ神戸2丁目という新しい共同体によって運営することにしたのである。それに伴い、オマンダラサンの行事の由来を語る雨乞い曼陀羅伝説の担い手も、神戸2丁目の人々へと拡大しているのである。神戸2丁目となってからの住民によっても、オマンダラサンの運営を通じて雨乞い曼陀羅伝説は知られたものになっている。新しい住民にとっては、移り住んだ土地に関心を持ったとき、なぜこの土地が「曼陀羅」というのかという疑問に対して、伝説が“歴史”(歴史的事実ではなく信じられる歴史として)を語る役割を果たしている。
曼陀羅地区では、昭和58年に祖師堂を建て替えているが、その際に「神戸2丁目集会所」も兼ねることになった。現在は2丁目の共同体運営決定の場である常会をはじめ、青年団やPTAなどあらゆる会合に利用され、祖師堂は神戸2丁目において信仰とともに社会的な求心性を持った施設になったということができる。その社会的機能は、祖師堂に新たに付与させた機能なのである。この祖師堂の玄関には金属製の「曼陀羅祖師堂」の文字が打ち付けられ、この地名が今に生きていることを地域に知らしめている。 また昭和55年には青年団による演劇「雨乞い曼陀羅」も創作された。
戸数が急増し、共同体が大きく変革を遂げようとしたとき、曼陀羅地区の人々は雨乞い曼陀羅伝説を通じて、その拡大した共同体の維持と結束性を図ろうとしたことが窺えるのである。従来雨乞い曼陀羅伝説がムラのなかで果たしてきた機能が、再び発揮されたと考えて良いだろう。その点において伝説は今後も均質な伝承内容を保持していくと思われる。
また平成2年には自治体により祖師堂の前に雨乞い曼陀羅伝説の概略を記した看板が設置された。それによって祖師堂を訪れる誰の目にも伝説の存在は明らかであるが、そこには曼陀羅地区というムラが記されるのみで、そこから一歩抜け出した特に語られるべき対象としてのF家は見られない。昭和55年に創作された演劇のなかでも、昭和57年に神戸地区社会教育推進会によって発刊された地域の郷土誌においても、日蓮に対応するのは曼陀羅地区というムラそのものである(この推進会に参加した神戸2丁目からの委員は、2名とも昭和30年以降の新住民である)。伝説を共同体外部に向けて公の存在にしようとした際には、F家(あるいは混同されたS家)の存在は語られようとしていないのである。F家の社会的位置を保証してきたムラの外部からの宗教的権威も、近年ではムラの“歴史”のなかでの機能だけを果たすにとどまっていると思われる。
さらに平成9年からは世話人制度を廃止していくことが検討されている。雨乞い曼陀羅伝説において語られる社会が、自らを平準化させていこうとしている動きが感じられる。今後雨乞い曼陀羅伝説が語られるときにF家の存在は語られる対象として残りうるのかどうか。伝説は必ずしも固定された存在ではなく、伝承する社会の変化に伴って、伝説もまた生き物のように変化していくことが窺える。


おわりに

これまで見てきたように、雨乞い曼陀羅伝説はムラの外部から宗教的な影響を受けて話型を固定化させながらも、伝説を伝承する社会においては、自らのムラ社会を語ることに意味を見出していたと捉えられる。それがムラの結束性を強化する機能を持つことから、ムラの伝承としてその内容は均質性を保ち、ムラを担い手とする年中行事にともなう伝説であることは同時に規範力を持たせたと考えられる。このために語られる対象への解釈行為の揺れ幅は小さく、伝承の差異としての異伝を聞くことがないのであろう。しかし伝説を語るムラと家自身が語られる存在でもあることは、やはりその時々の語る行為によって語られる対象が変化していく可能性を示している。ムラ社会について語る伝説が、伝承する社会秩序の変化を反映させながら変化していくことが窺える。現在その変化は過渡期にあってともすれば異伝として併存していく可能性も秘めているが、既述したようなこの伝説が持つ性格は、語られる対象への解釈の多様性を制約し、再び伝説内容を均質化させていくのではないかと考えられる。伝説とそれを伝承する社会の間ではおそらく幾度となくこのような相互作用が繰り返されながら、その時の社会にとって都合のよい解釈内容が選択されて、伝承されていくことが窺える。
雨乞い曼陀羅伝説の分析を通じて以上のような雑感を得たが、これまでの諸賢による業績によって事例を提示したに過ぎない。また調査不足から曼陀羅地区というムラ社会についての描き方が非常に不十分なことは承知している。ムラと伝説についてまた考察する機会を持ちたいと考えている。

最後に、小稿をまとめるにあたってお忙しいなか貴重なお話を聞かせて下さった神戸2丁目の皆様に深く感謝申し上げます。


    
註
(1)宮田 登 1975 『ミロク信仰の研究 新訂版』未来社  p120  ほか
(2)中西裕二 1991 「怪力を求めた社会-伝説研究再考のための一試論-」『日本民俗学』185 p27 
(3)三谷栄一 1978 「概説-口承文芸の歴史と諸相-」 『講座 日本の民俗9 口承文芸』有精堂出版株式会社 p28
(4)岩瀬 博 1986 「伝説の担い手」 『日本伝説体系』別巻1  みずうみ書房 p256
(5)雨乞いの呪物として用いられる曼陀羅については、高谷重夫が日蓮宗のものが多いことを指摘し、実際に日蓮宗が

   曼陀羅を持ち出して祈雨・祈祷を引き受けることが多かったからだろうと述べている。高谷重夫 1982『雨乞い習
俗の研究』法政大学出版局 p389 (6)沼津市我入道の事例は静岡県女子師範学校郷土研究会編『新版 静岡県伝説昔話集』上巻 羽衣出版 p198 (7)曼陀羅が登場する日蓮伝説は、『日本伝説大系』においては5例が見られた。 (8)宮田登 1986「概説-「東国」からの発想-」『日本伝説体系』5 みずうみ書房 p402 (9)このような民間信仰の対象となっている日蓮宗は裾野市、静岡市などの事例も報告され、その祈祷仏教としての機
   能が指摘されている。
 吉川祐子 1993 「日蓮宗の普及と定着」『静岡県史 資料編24 民俗二』静岡県 p1143~1149 (10)『駿河記』における曼陀羅の表記は「漫陀羅」である。安永8年の題目塔と日勤による刷り物の掛け軸では「漫
   荼羅」であり、現在は「曼陀羅」と表記されて各々異なっているが、本文中は現在の表記に従った。
   また両書ともに雨乞い曼陀羅伝説についての記述はなく、曼陀羅に「日蓮袈裟掛松」があったことを記している。 (11)梅野光興 1991「記憶する民俗社会」『大阪大学日本学報』10 p53
小松和彦 1989 『悪霊論』青土社 p26 ほか (12)梅野光興、前掲 p51 (13)神戸村は、明治22年の町村制施行の際、今泉村に編入される。 (14)富士市立博物館編 1993 『第27回企画展 水とくらし』p23 (15)伝承が本来規範性を持つのかどうかという問題がある。それは筆者の手に負える問題ではないが、雨乞い曼陀羅
   伝説の場合にはムラを構成する全ての家から伝承者となる人々が集まり、場と時間を共有して伝説を語る機会を
   得ていたことから、共時的にまた(伝承者間には当然世代差もあるだろうから)通時的にかなり強い規範意識が
   働いたと考えられる。 (16)三浦佑之 1987「伝説の言葉-<物>に向かう表現」『日本伝説大系』別巻1 みずうみ書房 p239 (17)ここでは詳述を避けるが、たとえば山林面積においてS家はF家の約10倍を所有している。 参考文献  小松和彦 1985 『異人論』青土社  斎藤 純 1989 「異伝の持つ意味」『足立区立郷土博物館紀要』第5号 田村芳朗 1975 『日蓮 殉教の如来使』日本放送出版協会 中尾 尭 1980 『日蓮宗の歴史 -日蓮とその教団』教育社  中尾 尭編 1975 『日蓮宗の諸問題』雄山閣 平山和彦 1992 『伝承と慣習の論理』吉川弘文館 矢野敬一 1991 「家」の記憶・「屋敷」の記憶-「伝承」の正当性・成層性」『社会民俗研究』第2号

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