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調査研究報告№4

富士山南口案内絵図


―村山修験者と南麓富士登山―

富士市立博物館学芸員  荻野 裕子

 富士山南麓における富士登山やそれに伴う信仰の実態は、いまだ明らかにされていないところが多い。江戸を中心に隆盛した富士講の登山受容口であった北麓の吉田口、東麓の須走口などに比べ、南麓の村山口は江戸中期にはすでに衰退しており、村山口を拠点とし中世以来の富士山信仰の担い手であったとされる村山修験が早くその力を衰えさせたことがその背景にある。扶桑教や実行教に名を替え、現在もなお信仰が脈々と続く富士講に比べ、かつての村山修験を語る資料はおのずと乏しいという、研究上の物理的制約もあろう。  本稿ではこうした現状をふまえながら、富士山南麓における登山や信仰の解明に少しでも近づくべく、村山修験もその発行に携わっていたとみられる、富士登山口案内絵図をとりあげてみたい。


1,富士登山案内絵図

 江戸時代には夥しい数の版本が流布し、また庶民による旅も盛んになって、道中案内も数々刷られている。富士山への道中案内としては、実際に自らも何度か登山した歌川貞秀の挿画による「富士山道しるべ」が知られていよう。これは万延元年(1860)の庚申年の出版とみられているが*1、発刊されたのは江戸から吉田口への旅程を記した前編であり、南麓の登山口への旅程を記すはずだった後編は、未刊に終わったようである。
 富士山の南麓から登山する場合、東海道あるいは甲州駿州往還などの主要街道から分岐し、富士山本宮浅間大社*2が鎮座する大宮(現富士宮市中央部)を経由して(あるいは経由せずに直接に)標高約500mの村山 口を目指して富士山へ向かうことになる。本稿で紹介する富士登山案内絵図は、この行程を含んだ富士山南麓一帯を描いた地図であり、そこに南麓の景観や名勝旧跡、信仰施設、そして縁起なども盛り込んでいる。木版一枚刷りで、大きさは30×40~40×60㎝あまりである。富士山南麓を描いた絵図には、後述するように肉筆のものも(資料1)発見されているが、製作方法の違いとともに本紙の大きさが60×65㎝ほどある掛幅形態であり、一連の登山案内絵図とは深い関係にあることが推察されるものの、とりあえず一線を画した存在としてとらえておきたい。 もちろんこうした絵図は富士山南麓だけのものではなく、北麓においても東麓においてもみることはできる。東南麓の絵図は、裾野市史編纂室および富士吉田市歴史民俗博物館学芸員堀内真氏のご教示によれば、今のところ当館所蔵の「富士山須山口略絵図」1点の存在が知られるだけだという。この図では、下部に東海道の三島・沼津宿が描かれ、そこから中央部で大きく描かれた須山浅間神社境内へ、そしてその背後の富士山へと至る。しかし、東海道から須山浅間神社までは単純な1本道にすぎず、その行程では南口のように史跡名勝などの情報はほとんどない。東麓は須走口の絵図「富士参詣須走口図」*3の存在が知れる。須走浅間神社の境内を中央に大きく描き、その手前に須走の町並みが続くが、そこに至るまでの道には所々雲が描かれてあまり明確ではない。北麓では、吉田口の北口浅間神社境内を中心に描かれたものを見ることができる*4。また吉田口では、この浅間神社に富士講で盛んに水行の場とされた八海(内八海は富士五湖など)も加えた絵図(江戸末期「富士山神宮麓八海略絵図」*5)や、八海になぞらえた忍野八湖めぐりを描いた絵図(「元八湖信仰再興絵図」*6)も見られ、吉田口が圧倒的に富士講信者の登山口であったことを物語っている。
 このように、富士山の各登山口でそれぞれを中心にした木版刷りの絵図が見られるが、これらを富士登山案内絵図と総称しておこう。南麓を描いた富士登山案内絵図において絵図中の表題を拾うと、「駿河国富士山絵図」、「駿州吉原宿絵図」、「富士山表口真面之図」と必ずしも一定しない。何種類もの版木があったと考えられ、おそらくは江戸中期以降明治期にかけて刷られたとみられるが、本稿ではこれらを富士山南口案内絵図と称しておく。南麓の場合、登山口として村山口・大宮口の両方が称される。富士本宮浅間社が鎮座する大宮は確かに富士登山の入り口として捉えられるが、実際にはここから西北へ進んで村山口に至り、そこから富士山の登山道に至ることになる。従って両方の呼び方があるものの登山口が2つあるわけではないため、統一して南口と称する方が便がよいと考えられる。 このような参詣案内図は、もとより富士山周辺だけで板行されたものではなく、高野山、鳥海山など名だたる霊山や著名な寺社では相当板行されていたようである。参詣案内の役割を持った絵図としては、室町末期から江戸初期にかけて数々製作された、社寺参詣曼荼羅を抜きに考えることはできない。参詣曼荼羅の定義として、画中に参詣者の姿があることが挙げられており、その意味ではこの富士登山案内絵図は参詣図と称することはできない。しかし、価格的にも形態的にも入手しやすい木版刷りであることは、あまねく庶民に富士山参詣を促す役割があったことは、疑い得ないだろう。ただその大きさと木版刷りという版元の手を離れて大量に頒布される性格から考えて、社寺参詣曼荼羅のように絵解きがあったとは考えづらく、用いられた料紙の大きさから見ても手元でみたものと考えるのが自然であろう。確認されている6点の富士参詣曼荼羅は、現在の富士山本宮浅間大社や村山浅間神社に該当する信仰施設を画面上で大きく描き、そこを通過した上で背後の富士山に参詣者を誘っている。一方、富士山南口案内絵図(以下、南口絵図と略す)に描かれているのは富士山南麓一帯と広域であり、村山修験の拠点であった村山浅間神社、大日堂などはわずかに堂宇の存在がしれる程度で、建築物としての描かれ方は粗雑である。
 ではなぜ、境内図ではなく信仰施設を大きく描くのでもなく、富士山南麓一帯という広い地域を描いたのか。境内図ならば、その境内に至ってはじめて広げられるだろう(あるいは土産物としての価値もあろう)。資料数が少ないなかでの比較になるが、富士登山案内絵図のなかで、もっとも登山口に至るまでの行程を詳しく描き込んでいるのが、南口絵図ではないかと思われる。管見が及ぶ範囲の南口絵図には、すべて画面最下部(南)に東海道が走り、画面最上部(北)に富士山が描かれている。その行程上には橋の位置や道しるべ、目印となるような(また観光地でもあるが)名所旧跡が多々描き込まれ、雲で行程が隠される須走口とは大きく異なっている。つまりは、この行程を詳しく描き込むことに、南口案内絵図製作の意図があったと考えられるのである。「駿州吉原宿絵図」と「駿河国富士山絵図」の場合、吉原宿から各地への里程が記されていることからみても、当初に述べたとおり、この図は富士山参詣道者のための案内図とみてよいだろう。「吉原宿絵図」には文政十年の「初夏」に開板とあり、初夏といえばこれから夏にかけての道者(富士山参詣者をさす)を対象にしていることが十分想像される。
 これらの絵図には、4つにあるいはそれ以上に小さく折り畳んだ折り跡がみられる。ことに左右に折った跡が著しく、何度か畳んでは広げ、広げては畳んだことが予想できる。そのことは、絵図を手にした人物が、絵図を携帯して歩を進めたことを示唆するものであろう。そして「駿河国富士山絵図」の場合には、この左右の折り跡を中央にして、左右の画面上に反対側の文字や絵の墨の痕跡がみられる。これは、墨付具合が新しいまま絵図を折ったことを示している。ならば、手にした人物は絵図に描かれた行程上の早い段階で絵図を入手したと考えられ、行程上の早い段階とは、東海道付近と考えるのが妥当ではないだろうか。
 このように木版一枚刷りの南口絵図は道者相手の地図という役割が容易に想像されるが、そこに描かれた内容に富士山への参詣を促した板行者の意図や、彼らの信仰世界をうかがうことができる。その頒布は富士山信仰の布教にも役立ったはずである。板行者や時代によって内容は微妙に異なるはずだが、そこに検討の必要があろう。富士山南口案内絵図の場合、村山修験者がその板行に携わっていたとみられる。村山修験者の足跡に関わる資料が少ない今日、彼らの道者への意図や信仰世界を反映していたと考えられるこの資料についての研究価値は、少なくないものがあろう。


2,富士山南口案内絵図の蔵板者

 富士山南口案内絵図の板行に村山修験者が携わっていたと記したが、具体的に資料を追って、その点を跡づけてみよう。明らかに蔵板者が村山修験者であるのが、現在2点が確認されている当館蔵「駿河国富士山絵図」(資料3)と春野町個人蔵「富士山表口真面之図」*7であり、前者は「富士山別当表口 村山興法寺三坊蔵板」、後者には「富士山別当 村山興法寺三坊蔵板」と刷られている。三坊とは辻之坊、大鏡坊、池西坊であり、『駿河国新風土記』によれば辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現のそれぞれ別当をつとめ*8、村山修験者の拠点であった。村山興法寺はこれらの絵図中にも村山の施設を描いた絵図(年未詳「富士山表口南面路次社堂室有来次第絵図」*9)にも単独の寺としての存在はなく、これら諸堂社および三坊の総称と考えられている。
 「駿河国富士山絵図」には画面ほぼ中央に村山が描かれ、辻之坊、大鏡坊、池西坊の三坊と、村山浅間神社・大日堂・大棟梁権現の位置関係も明瞭である。そして上部には富士山縁起などが記され、最後に「表総本寺京聖護院宮村山諸堂御社天下御建立所」と記されている。この京聖護院との関係性をうたった文章はほぼ定型化されており、このほかの絵図にも登場する。無題の南口絵図(資料2)にも、画面のほぼ中央に村山が描かれると同時にその脇に「表宗本寺京都聖護院宮門跡村山興法寺富士別当三ケ坊アリ諸堂社天下御建立所」とある。肉筆だが「富士山禅定図」(資料1)にも「表総本寺京聖護院宮門跡邑山興法寺富士山別当三ケ坊有之諸堂社天下御建立所」とある。
 京聖護院は京都にある本山派修験の本山である。村山修験者は文明14年(1482)に聖護院門跡道興の巡錫を機に本山派に包括されたとみられており*10、その後も何度か聖護院門跡が村山を訪れているようである。村山側からみれば、醍醐寺と並んで全国の修験の頂点に立つ聖護院の名を掲げることでその本末関係を明らかにし、自らの権威を高めようとしたことが考えられる。「表総本寺」は富士山表(南麓)を統べる寺として聖護院門跡の村山があり、これらの諸施設が「天下」に許しを得た建立である、と解釈すればよいだろうか。 「駿河国富士山絵図」では、富士山縁起とともに頂上の八葉(八岳)のひとつひとつに地蔵、阿弥陀、観音、と仏の名が掲げられている。富士山を開山したのは、修験道の開祖と仰がれる「役行者大菩薩」と記され、彼ら山岳修験者の仏教的な思想がうかがわれる。 では、村山修験者はいつごろからこのような富士山南口絵図を板行するようになったのか。年代が刷り込まれたものは「文政十丁亥年初夏開板之」とある「駿州吉原宿絵図」(資料4)だけである。この絵図は「吉野保五郎板」とあり、村山修験者蔵板の絵図ではないが、年代の指標になろう。この吉野板の形式は、年号の記載はないが三坊蔵板の「駿河国富士山絵図」(資料3)と内容が非常によく似ている。画面上に盛り込まれた情報は、日蓮宗寺院や曽我史跡もほとんど共通し、両者は年代的に相当近いころの製作と考えられる。非常によく書き込まれたこの2点の絵図では富士山南麓の名勝史跡が多数紹介され、しかもその彫りの細かさから、史跡も少なく彫り具合もどちらかといえば粗い無題のもの(資料2)に比べると、かなり年代はあとのものであろう。
 では年代的に両者をさかのぼると考えられる無題の南口絵図が問題だが、年代の手がかりとなるのが絵図中の「富士山道」の道しるべである。この道しるべについて詳しくは後述するが、現在も場所は移されたものの遺っており、その建立年は宝暦8年(1758)である。すると、この絵図の開板はそれ以後と考えて自然だろう。江戸で富士講が発生したと見られているのがこの宝暦・明和のころであり、以後、江戸方面から吉田口を利用した富士講員の登山が活発化し始める。
 なお南口絵図のうち、明らかに明治以後に刷られたものもある*11。三坊蔵板の「富士山表口真面之図」と同じ題名・同じような構図だが若干異なり、明治初期の修験道廃止令など神仏分離政策を受けて、村山や富士山頂からほとんど仏教色は消え去っている。この明治以降の真面之図は数点が確認されているが、それらのなかに「□(欠損)山蔵板」と刷られているものが見られ、この表記がない図でもみな同じ構成・同じ内容であることや「表口村山ヨリ諸方ヘ里程」が列記されていることから、すべて村山蔵板の絵図と考えられる。本来ならばこうした絵図に見る明治以後の比較もしなければならないが、小稿では江戸時代に板行された南口絵図のみを対象としておくこと、つまりはそれによって江戸時代の富士山南麓における登山について考えていくことをお断りしたい。


3,富士山南口案内絵図の頒布場所

 こうした南口絵図はどこで刷られ、頒布されていたのか。版木の所蔵者として村山修験者がいたとしても、絵図の性格からして村山で頒布されていたら意味がない。前節で述べたとおり、より富士山参詣行程の早い段階で、おそらくは東海道付近で頒布(あるいは板行も)されていたことが考えられるだろう。このことについて、次のような事例を掲げることができる。
 天明6年(1786)、尾張藩士高力猿猴庵は、尾張から江戸へ向かう道すがらを、挿し絵入りの『東街便覧図略』にあらわした*12。同書は各地の風物や名勝を描いているが、そのなかで「元吉原」では「富士山禅定の図并富士山略縁起」を売る、富士見屋という店があることを記している。元吉原は東海道上にあり、吉原宿の東側・吉原湊(現在の田子の浦港)付近に位置し*13、その名の通り寛永年間(1624~43)に移転するまでは吉原宿はこの地にあった。高力が描いた細かなその画面を見ると、富士見屋とおぼしき店先に掛幅がかけられ、そこから「富□山禅定図」と書かれた紙が垂れ下がっている。この「富士山禅定図」は下半分がかろうじて描かれている程度だが、その図は明らかに吉原湊とその東側の浮島沼を描き、富士山南麓の南端の様相を示している。掛幅の形態からみてこの図は木版刷りではないだろうが、売られる以上は買い求めた旅人はこうした富士山禅定図を持ち帰ったであろう。当館所蔵資料にも、冒頭で述べた掛幅の「富士山禅定図」がある(資料1)。そこに描かれた図の南端部分は高力が描いた図にほぼ相当し、そしてこの資料は京都で発見された。高力が記す富士見屋で買い求め京都に持ち帰られたものなどとはいえないが、あるいはそういう事実もあったかもしれない。京都には村山修験が属する聖護院があり、また富士行人と呼ばれた村山修験下の関西系の修験者がいたことが明らかにされており、村山修験を通じて富士山麓とは関係の深い地である。高力は富士見屋の富士山禅定図に、孝安天皇九十二年の富士山湧出縁起以下、富士山の異名、八葉九尊の仏菩薩などが記されているとし、当館蔵の「富士山禅定図」や三坊蔵板の「駿河国富士山絵図」とほぼ同様の記載があったことを知ることができる。富士見屋の富士山禅定図は木版刷りではないものの、その製作には何らかの形で村山修験者が関わっていたことが推測される。

資料1 富士山禅定図 資料1 富士山禅定図 当館蔵

 いずれにせよ、天明期にはすでに富士山南麓の東海道筋では富士山図を販売していた。富士講の中興の祖・食行身禄が富士山で入定してから約50年、江戸では富士講がその興隆を見せ始めたころである。
 文化8年(1811)、司馬江漢があらわした随筆『春波楼筆記』には、「元市場と云ふ処は、白酒を売る処なり、爰にて富士山の図を板行に彫りて、埒もなく押してあるを、蘭人往来する時、何枚も需むる事なり」*14とある。元市場は東海道・吉原宿と富士川の中間にある間宿であり、米宮浅間神社をその北に抱く門前のまちともいえる。司馬の文章からして、木版刷りの富士山図がここで頒布されていたことは明らかであり、蘭人だけでなく東海道を行く旅人に求められたであろう。
 文政10年(1827)に開板の「駿州吉原宿絵図」と、これと同じ頃の製作と見られる三坊蔵板の「駿河国富士山絵図」は、吉原宿を基点に里程が記されているところから吉原宿での頒布はまず間違いないだろう。
 以上、富士山南口案内絵図の頒布場所であったとみられる3箇所を列記したが、東から元吉原、吉原宿、元市場と、いずれも東海道上にあったことがわかる。これはやはり、絵図の頒布対象が東海道を行き来する旅人であったことを証左するものであろう。同時に、富士山南口からの道者は、東海道を利用して富士山を目指していたことがうかがえるのである。
 さて、もう一方の問題は頒布場所と村山修験者との関係である。この絵図の蔵板者が主に村山修験者だとして、これら村山を離れた東海道筋の頒布場所との関係はいかなるものがあったのか。この点を明らかにすることは難しいが、『駿河国新風土記』には、村山が富士川の東岸に役所を建て、西国の道者が大宮村山を経由せずに登山することを止めていたことが記されている*15。富士川の東岸というその場所は、どう考えても東海道沿いであろう。村山修験者は山林修行の山岳修験者であるとはいえ、こうした地点まで西国の道者確保のために降りてきたわけである。また吉原宿は村山修験者が夏期に行う富士峰(回峰)修行の帰路になっており、脇本陣で休憩した記録が遺されている*16。明治末期~大正初期には、法印と呼ばれ、冬に吉原の人々のお払いをして回ったことが知られ*17、吉原宿という地域全体で受け入れられていた宗教者だったことがうかがわれる。彼ら自身あるいはその委託による吉原宿等での絵図の板行・頒布はあり得ないことではなかろう。
 この西からの道者がどの道を通って登山口に至るかという問題が、次節で述べるとおり、村山修験者が富士山南口案内絵図を板行した大きな理由になっていたと考えられるのである。


4,西からの道者 -富士川と吉原宿-

さてここで、絵図に描かれた富士山への行程をくわしく追ってみよう。
 まず、年代的に古いと見られる無題の富士山南口案内絵図(資料2)。この絵図の中で富士山へと至るには、富士川の東側・水神社付近から岩本を通り、すぐに潤井川を渡って北上するようになっている。その東海道からの分岐点には「富士本道」(後述するように本来は富士山道)の道しるべが描かれ、その道をまっすぐたどれば「大宮センケン」(大宮浅間)を経ずに直接村山の地に至る(もしこの図で大宮へ赴くなら村山から西に迂回せねばならない)。東海道から富士山へ至る分岐点は富士川東側の道しるべなのであり、目的地は直接村山になる。『駿河国新風土記』にも、富士登山について「東海官道松岡村に富士山道と刻たる石碑の立たる所より其道に入て」*18とこの道しるべが富士山への分岐点であることが示されている。ちなみに東海道の中でもっとも富士山に近い宿場であるはずの吉原宿には絵図中宿場という表記もなく、描かれた家並みは富士川西側の岩淵・蒲原より少ないほどである。
 三重県大王町個人蔵の「三国第一富士山禅定図」*19は、村山が製作者であったことがうかがわれる絵図だが、これも富士川東側の東海道との分岐点「富士山道」の道しるべを基点に、直接村山へとたどる道の地図である。金沢文庫所蔵の「富士山禅定図」*20も同様な道の描かれ方であり、同時に吉原は小さく描かれている。
 これらのことから考えると、このパターンの南口絵図は、東海道を西から来る道者を対象に製作されたのではないだろうか。西からの場合、道者は富士川を渡った地点で北上すれば、何も吉原宿まで行きすぎる必要はなく、絵図に吉原宿が描かれていなくても問題はない。そして大宮を経由しないその道筋は、道者を大宮の道者坊に宿泊させるのではなく、直接村山へ宿泊させるための意図があるだろう。文政9年(1826)に富士本宮浅間社の社人・宮崎氏が入手したという書付に、村山が道者に配った木版一枚刷りの「富士道中入口」*21がある。その内容は富士川渡船場から岩本へ入り、凡夫川(潤井川)を越えて天間・石原を経て村山に至るという、大宮を経由しない富士山道中を記したものなのである。前節で記した絵図の頒布場所と見られる3箇所はいずれも富士川を離れ東海道を東へ行った地点であり、西からの道者確保のためには、村山が役所を建てたという富士川東岸で、この「富士道中入口」と同様に頒布された可能性が考えられる。 東海道の分岐点にあった「富士山道」の道しるべは、現在水神社境内にうつされて現存している。宝暦8年(1758)、長上郡下石田村(現浜松市)の者によって「三十三度禅定成満」(33回の登山成就)を記念して建立されたことが碑文からうかがえる*22。西(遠州) からの道者であるこの人物が、なぜこの地にこの道しるべを建立したかを考えれば、それはやはり、彼らにとって富士川が重要な地点であったからだといえる だろう。その後くり返しこの道しるべが絵図に登場することが、それを物語っているともいえる。道しるべの建立は6月であり、これから道者を迎える時期に合 わせたと考えられる。
 「富士山道」の道しるべには、先達と願主の名とともに「宿坊」が「別当 池西坊法印」であることが刻まれている。下石田村のこの先達に率いられた道者た ちは、村山三坊のひとつ・池西坊を宿坊としていたことがうかがわれるのである。下石田村にほど近い宮口村(現浜北市)の天保12年(1841)村入用帳によれば、 5月8日に「富士山」へと一朱六十文を支出している*23。富士山関係の宗教者への支出であることが予想されるが、同村の弘化2年(1845)の村入用帳には11月12日に「富士辻ノ坊」へ初尾として二百文を出しており*24、先の「富士山」も辻之坊であったと推測される。この地域は村山修験者の霞場であったことが知れるのであ り、西へと富士山信仰の布教のため彼らが歩いていたことが窺われるのである。
 地理的に考えてみても、西から富士山を目指すならば、南麓の登山口を利用するのは自然だろう。 村山口を利用した道者には、事実西からの道者が多かったことも記録にある。 『富士宮市史』によれば、安永2年(1773)~文化2年(1805)までの大鏡坊宿泊人数は総計2,086人だがが、 その出身地は知多が405人、近江甲賀387人、近江110人で、全体の4割を越えている*25。彼らは東海道を西から歩く旅人であったことだろう。

資料2 無題・富士南口案内絵図 資料3  駿河国富士山絵図
 資料2 無題・富士南口案内絵図 当館蔵   資料3 駿河国富士山絵図 当館蔵

 一方、文政年間頃の製作と思われる「駿河国富士山絵図」(資料3)は、無題の南口絵図とは道筋が若干異なっている。 「富士山道」の道しるべはなく、富士山への「登山道」は吉原宿の手前・西側で東海道から分岐して北上し、村山に至っている。 吉原宿の描かれ方はきわめて大きく、「吉原宿」の文字は絵図中の文字の中で表題に次ぐ大きさである。 さらに「吉原宿ヨリノ道法」が各所に記入され、明らかにこの絵図の基点は吉原宿になっていることがわかる。 吉原宿の位置は大分画面上東寄りで、その西側のスペースが広く情報量も多い。 そしてこの吉原宿からの「登山道」もまた大宮を経ない道筋であり、富士本宮浅間社の描かれ方は非常に小さくその存在に気づくのがやっとである。 このような点から、絵図の基点は吉原宿に移動しながらも、この「駿河国富士山絵図」の意図したところは、変わらずに村山へ直接道者を誘致することであり、西からの道者を対象に製作されたと考えることができる。
 このなかでは、富士川から吉原宿西側までの間に、無題の南口絵図には見られない、柚木の「田畠神」「長者池」、元市場の「名物白酒」などの情報が刷り込まれている。柚木には、駿河方面からの道者は、ここの柚木社に詣で境内の柚木の葉を携えて登れば富士登山が無事にすむといういわれがあったと『富士の信仰』には記載されている*26。また田畠神は、米宮浅間神社と同様に米が降ったという伝承をもつ天白社を指すのではないかと思われるが、柚木の古老によれば西か らの道者は、この社の付近にあった、米が降った場所とされるお初田にお参りすべきだとのいわれがあったという。実際に西からの道者がお参りしているのを見たという古老はいないが、お初田は昭和35年ごろまであったとのことである*27
 西からの道者が柚木を通る、ということは、富士川東岸からすぐに北上し岩本に至ることにはならず、無題の南口絵図とは矛盾が生じる。一方、その数十年あとに刷られたと見られるこの「駿河国富士山絵図」では、そのことは積極的に村山修験者によって宣伝されたわけであり、あるいはこれらの伝承は、この期間に彼らが西からの道者を吉原宿付近まで引き寄せるために作為したのではないかとも考えられる。
 しかし富士川を渡ったあと、すぐに北上させるのではなく吉原宿の手前まで道者を誘致するようになったことは何を意味するのか。寛文2年(1662)、大宮代官・井出籐右衛門と加島代官・古郡孫太夫は、かねてからの制札として、富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡らずに大宮を通るべきという制札を岩本に出し、また宿坊への道者の争奪は禁止する制札を大宮に出している*28。寛政10年(1798)には富士本宮浅間社の公文・富士長門が、近年富士参詣道者が古来からの決めを破って大宮を通らず、直ぐに岩本村から村山に行くため本宮浅間の坊が大変迷惑している、このため先年の通り大宮・岩本に制札を出して欲しいと韮山代官・江川太郎左衛門に願い出ている*29。これを受けた江川は、翌年に井出と古郡が寛文2年に出した制札の通りにせよと、新しい制札を出しているのである*30。こののちも、制札に違反していることを訴える文書が認められ*31、制札の効力は続いていたようである。
 村山は自らの坊への直接の道者誘致を禁止されたことになる。大宮を経由することは、少なくとも道者の何割かは大宮の宿坊を利用することになり、村山への収入は減少することになる。また登山税である山役銭も、大宮を経ればそこで徴収され、大宮を経なければ村山で徴収できることになっていた*32。村山の道者誘致ポイントは富士川東岸の岩本であり、そこに制札が出されたからには村山修験者は岩本から村山へ直接至る道(無題の南口絵図の行程がこれにあたる)を示すのは、難しくなろう。
 こうした状況のなかで、「駿河国富士山絵図」が製作されたのではないだろうか。もし吉原宿手前から道者が北上するならば、”富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡るべきではない”、という制札の部分には少なくとも触れずにすむ。東海道を通って潤井川を渡ることになれば、止められるはずもない天下の公道である。この図と非常によく似た内容を盛り込んだ、文政10年(1827)個人開板の「駿州吉原宿絵図」では、富士山へと至る道は岩本から北上し大宮を経由して村山に至る道と、吉原宿から大宮へと至る道を示し、必ず大宮が経由されている。この状態ならば寛政11年の制札に抵触することなく、制札内容に乗っ取った正しい絵図ということができる。 元市場での富士山図頒布は文化8年の記録であり、寛政11年の制札以降のことである。柚木よりさらに東の元市場で頒布されたこの絵図は、「駿河国富士山絵図」や「駿州吉原宿絵図」のような道筋を示したものではないだろうか。

資料4 文政10年 駿州吉原宿絵図 資料4 文政10年 駿州吉原宿絵図 当館蔵

富士山の各登山口案内絵図を比較したはじめの段階に立ち戻ると、なかでも南口絵図の行程が最も詳しく描き込まれた背景に、おもな板行者であり登山口に宿坊を構えた村山修験者と、大宮にある富士本宮浅間社の周辺に宿坊を構えた社人との間に、このような登山行程をめぐって道者確保の争いがあったためではないかと考えられる。西からの道者がどの道をたどって富士山に至るかによって、村山の存亡の鍵が握られていたのだろう。
それでは、もう一方の宗教勢力である富士本宮浅間社の社人は、こうした絵図を板行しなかったのであろうか。彼らが委託製作したと考えられているのが、室町末期から江戸初期の富士参詣曼荼羅であり、いずれも富士本宮浅間社が大きく描かれている。富士登山へ向かう道者を本宮浅間へ誘うものであり、大社所蔵の2本はその境内にある富士山の湧水池・湧玉池で垢離をとらせることの必要性を訴えていると解釈されている*33。それによって、社人の宿坊へも道者の宿泊を促したであろう。しかし、このあとの時代、村山修験者のように社人によるとみられる木版刷りの登山案内絵図は、今のところ確認し得ていない。このことは、先ほど述べたように、大宮を経由すべしという制札が繰り返し出され、大宮への道者の確保は公の権力によって保証されていたことが背景にあると考えられる。甲斐駿河の国境に近くその往還上に位置する立地条件から、軍事的に、そしてもちろん宗教的にも富士山南麓の一大拠点であった富士本宮浅間社に対する権力者の庇護は、権力者が今川・武田、そして徳川へとうつっても変わらぬものがあった。現在の同社の社殿は、慶長9年(1604)に家康によって建造されたものという。
 一方の村山修験者は、今川氏の時代にはそのスッパなどの役割を努め、その庇護を受けていたことが明らかにされているが*34、逆に今川氏が衰退した16世紀後半以後は、権力者による強力な後ろ盾を失っていく。富士郡の村々とその山野利用について24年間争った際には、延宝7年(1679)の裁決で敗訴し、大鏡坊隠居は流罪など厳しい処罰を受けねばならなかった*35。庶民の生活上の権利の方が、村山修験者の宗教的権利よりも優先されたのである。
 さらに、安永8年(1779)には富士山頂の支配権争いの結果、富士山8合目以上は富士本宮浅間社の持ち分と確定されたが*36、この時支配権を争ったのは須走村と富士本宮浅間社であり、12世紀に富士山頂に大日寺を建立したとされる末代上人の後裔・村山修験者たちは、その争いへの参加もしていない。江戸時代になると、関西方面の富士行人は、在地で富士垢離をとるのみで実際に富士登山をしなくなった*37(つまりは村山口を宿坊として利用しなくなった)と見られており、支配力の問題だけでなく、このころには村山修験者は経済的にも行き詰まってきたと見られる。『駿河国新風土記』には、文政9年(1827)にはすでに村山がすっかり衰微したことが記されている。この200年前(江戸初期・寛永年間(1630前後)ごろ)には戸数600戸あまりだった村山が、60~70年前(江戸中期・宝暦年間(1760前後)ごろ)には70戸ほど、そして文政9年には山伏社人のほかは民戸2戸となってしまったとその衰退ぶりは明らかである*38。冒頭で述べた幕末の「富士山道しるべ」が、吉田口編は発刊され一方の南口編が発刊されなかったのは、こうした理由によるものであろうか。関東地方にその登山口を広げる北麓の吉田口は、禁止令も出されるほどの圧倒的な隆盛を見た江戸とその周辺からの富士講の登山で、繁栄を極めていく。
 南口絵図は、「富士山道」の道しるべが建立された宝暦8年以後に開板されたと考えられるが、すると一連の南口絵図はすでに村山が衰退し始めてからの板行であることがうかがわれる。まさに村山修験者たちは存亡の危機を迎えており、積極的な道者誘致が切実な問題になっていたと考えられるのである。
 さて、その後幕末に板行されたとみられる「富士山表口真面之図」には、吉原宿手前西側で直接村山へ北上する道とともに、この岩本からの道も道しるべとともに再び登場する。しかしこの時には、同時に岩本から大宮を経由して村山に至る道も加えられ、富士本宮浅間社は意外にも大きく描かれている。各地における神道勢力の拡大もあってか、村山修験者にとって、もはや軽視することは不可能な存在になったのだろうか。


まとめ

 以上、富士山南口案内絵図について検証した結果をまとめてみよう。南口絵図は、おもに村山修験者がその板行に携わっていたことがうかがえる。その開板は、おそらくは富士川東岸に「富士山道」の道しるべが建てられた宝暦8年以降であり、この地点を利用する西からの道者を対象に、村山へ道者を直接誘致するために製作されたと考えられる。しかし潤井川をすぐに渡ることで大宮を経由しないこの道筋は制札によって繰り返し禁止され、文政年間前後には、とりあえず東海道を通ることで潤井川を渡り吉原宿から北上する道の絵図も製作された。しかし、やはりその道筋も大宮を経ないものであった。村山修験者が板行した大宮を経由しない道筋の絵図は、富士本宮浅間社と道者の確保を争っていたことが背景にあり、江戸時代以降衰微した村山修験者の生き残りがかかっていたといえよう。 そのほかの吉田・須走・須山の富士登山口案内絵図で大きく描かれているのは、登山口に至る行程よりもそこに鎮座する浅間神社である。それはこれらの登山口がそれぞれの浅間神社を中心とし、そこに活躍する宗教者(御師)が、その内部での駆け引きはともかく、ひとつの宗教勢力としてまとまりを見せていたためと考えられる。
 一方、浅間神社など信仰施設の描かれ方は粗略で、登山口に至る行程が非常に詳しく描き込まれているのが、ほかと比較したときの南口絵図の特徴であるが、それはとりもなおさず大宮口・村山口と1つの登山口でありながら2つの名称で呼ばれ、社人と修験者という2つの宗教勢力が競合した南口の実態を、そのまま反映していたと考えられるのである。
 小稿では紙幅の都合から、当初に述べたように、富士山南口案内絵図から村山修験者の信仰世界まで分析することは出来なかった。文章中でも若干ふれたとおり、これらの絵図には富士山の縁起や富士山頂の八葉(八嶽)になぞらえた仏の名などの文字情報とともに、描き込まれた信仰施設などの絵画情報から、多少なり彼らの信仰世界をくみ取ることができると思われる。その場合は、さらにほかの登山口絵図との比較が必要であろうが、それについては別稿にゆずりたい。
 社寺参詣曼荼羅に比べると、木版一枚刷りのこうした社寺案内絵図そのものは、まとまって保管されにくい面やその多種多様性のためか、あまり研究の俎上に乗せられていないように思われる*39。しかしこの富士山南口案内絵図のように恐らくその多くは宗教者により板行され、そのことは彼らの意図が絵図に反映されていることを予想させる。いつごろどのような内容構成で、どのように頒布されたのかは、当時の霊山・霊場の実態を考える上で多くの示唆を含むと考えられる。社寺参詣曼荼羅から木版刷り社寺案内絵図への移行は、その大量性や安価さ、各人が手に持ち帰られる形態から、さらに庶民化した近世中期以降の霊山・霊場参詣の実態を反映しているともいえるだろう。富士山もまたそうした霊山の一つである。

註
*1 鳥居和之(名古屋市博物館)ほか編『日本の心 富士の美展』1998
*2 富士山本宮浅間大社は、『浅間文書纂』(後掲21)から江戸時代の文書を見ると「富士本宮浅間」という書かれ方が
   圧倒的に多く、その由来書は「富士本宮浅間社記」と題されている。
   このため江戸時代を対象とする本稿では富士本宮浅間社と記していく。
*3 小山町史編さん専門委員会編『小山町史 第二巻 近世資料編Ⅰ』小山町 平成3年、口絵4所載
   (日本大学国際関係学部図書館蔵)
*4 当館蔵、無題
*5 富士吉田市歴史民俗博物館編『描かれた富士の信仰世界』展 平成5年、所載
*6 富士吉田市歴史民俗博物館編『MARUBI』8号 平成9年、所載
*7 静岡県編『静岡県史 資料編15 近世七』静岡県 平成3年、口絵12所載
*8  新庄道雄『修訂 駿河国新風土記』下巻(復刻版)国書刊行会 昭和50年、P915
*9 富士宮市教育委員会編『富士山村山口登山道跡調査報告書』富士宮市教育委員会 平成5年、P37所載(村山浅間神社蔵)
*10 宮家準「富士村山修験の成立と展開」『山岳修験』第6号 平成2年
*11 当館蔵「富士山表口真面之図」
*12 高力猿猴庵『東街便覧図略 伊豆・駿河・遠江の部』(復刻版)羽衣出版 平成6年
*13  この付近に、富士登山者は浜で垢離をとり、塚上でお払いをしたという富士塚がある(前掲8,P1277)
*14 司馬江漢「春波楼筆記」『司馬江漢全集』第二巻 八坂書房 平成5年
*15  前掲8、P912
*16 「三番 諸家様御休泊控」(脇本陣野口家文書)に天保3~6年のいずれも8月15日に
   「村山三坊山廻り」の休憩に食事などを出したことが記されている。
*17 矢部新作『吉原っ子の徒然草』秀英社 昭和44年
   明治33年に吉原に生まれ育った著者がその思い出を挿し絵入りで記した同書には、
   吉原の「各家庭は軒下に並んで頭を出し、馬上の法印さんのお払いを受け」る場面が描かれている。
   その絵からは、いまだ宗教者として権威を保つ村山修験者の姿が見受けられる。お払いの代わりに、
   おひねりを渡したという。
*18 前掲8、P912
*19 静岡県編『静岡県史 通史編4 近世二』静岡県 平成9年、P735 所載
*20 末広昌雄「富士山絵図小考」『あしなか』247集 平成8年 所載
*21 「村山浅間別当頒布案内書」(四和尚宮崎氏文書39)
   浅間神社編『浅間文書纂』名著刊行会 昭和48年、P551
*22 碑文は以下の通り
     正面) 富士山道  
    左)宝暦八年 寅 六月吉祥日  
    右)三拾三度禅定成満
     遠江国長上郡下石田村
                      先立 観善院中
                      願主 俗名
                         鈴木喜□衛
                      宿坊 別当
                             池西坊法印内
*23 天保12年「村方入□□」(鈴木隆助家文書)『浜北市史 資料編 近世Ⅲ』平成8年
*24 弘化2年「村方入用帳」(鈴木隆助家文書)
     『浜北市史 資料編 近世Ⅲ』平成8年
*25 遠藤秀男「富士講と富士登山」『富士宮市史』上巻 富士宮市 昭和46年 P838~839
     これに次いで信州234人、下総212人となる。
*26 浅間神社社務所編『富士の研究Ⅲ 富士の信仰』 名著出版、P283
*27 平成10年調査(話者:昭和15年生まれ)
*28 寛文2年「井出藤右衛門古郡孫大夫岩本口制札写」(公文富士氏文書29)、
   同年「井出籐左衛門古郡孫大夫大宮口制札写」(公文富士氏文書28)
   両文書とも前掲21『浅間文書纂』、P242所載
     なお、これらの文書には「井出籐左衛門」の表記もあるが、これは「井出籐右衛門」の誤りである。
*29 寛政10年「公文富士能広大宮岩本両口制札願控」(公文富士氏文書64) 前掲21『浅間文書纂』、P272
*30 寛政11年「江川太郎左衛門大宮口制札写」(案主富士氏文書29)、
   同年「江川太郎左衛門岩本口制札写」(案主富士氏文書30)
   前掲21『浅間文書纂』、P412~413所載
*31 文政13年「道者坊総代宮崎春長訴状控」(四和尚宮崎氏文書35) 前掲21『浅間文書纂』、P550所載
   天保元年「道者坊書状控」(四和尚宮崎氏文書32)前掲21『浅間文書纂』、P548所載
*32 宮地直一・広野三郎編『富士の研究Ⅱ 浅間神社の歴史』名著出版 昭和48年、P477
*33 堀内真「富士に集う心ー表口と北口の富士信仰ー」『中世の風景を読む 第3巻』新人物往来社 平成7年
*34 遠藤秀男「富士信仰の成立と村山修験」『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中部霊山』名著出版 昭和53年
*35 前掲34,P56
*36 小山町史編さん専門委員会編『小山町史 第七巻 近世通史編』小山町 平成10年
*37 前掲34、P49
*38 前掲8、P915
*39 なお富士吉田市歴史民俗博物館では、平成12年夏に富士登山案内絵図についての企画展を開催予定とのことであり、
   その成果が待たれる。

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