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調査研究ノート№17(博物館だより№42より)

旧富士郡下の竹行李づくり(富士・沼津・三島3市博物館連絡協議会企画展「竹の今昔物語」調査より)


 『静岡県富士郡誌』(大正3年)によると、明治33年(1900)伝法村に富士山御料林産のスズタケを原料として竹行李製造を行う工場がつくられたと記されています。職工300余人が働き、原料も豊富に採れたので業績もよく、この工場で養成された職工が各町村で農閑期を利用して製造に着手しはじめました。昭和37年(1904)このには最盛期を迎え、群下の2、3ヶ村を除いて皆竹行李を製造していたことも記されています。
 富士市中里の昭和5年(1930)生まれの男性の生家では、第2次世界大戦のころまで竹行李をつくっていたそうです。各戸食事をする板の間や、板敷きの物置などで、1年中夜なべ仕事に家族総出で竹行李をつくりました。材料は須津川上流のススダケ(クマザサ属。この地域ではススダケ、コリダケとも呼ばれる。)を機械化された道具(組合共有)で割ってうすくして使いました。次第に原料の安定した入手を求めて出荷組合がまとめて天城から入手するようになりました。(注1) 本体部分にはススダケを使い、フチマキにはマダケを使いました。出来上がった竹行李は、3~4個くらいの大小大きさの違うものを入れ子状にして出荷の状態に整えました。現岳南鉄道須津駅前に竹行李の共同出荷場があり、ここから全国へ発送されました。
 主に大正年間~昭和初期にかけて盛んにつくられた竹行李ですが、生活様式の変化やプラスチック用品の登場などにより、次第にその役目を追われていきました。
注1:富士山麓のススダケは明治35~36年(1902~1903)に開花の記録があります(富士竹類植物園)。竹・笹類は開花の後枯死するといわれています。

竹行李づくり
       ▲竹行李づくり(『郷土誌須津』より)

(学芸員:高林晶子)

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