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調査研究報告№12

平成14年度受入資料「小澤家資料について」

当館学芸員 工藤美奈子

はじめに

  平成14年、当館では富士市原田の小澤家資料1,707点を受け入れた。内訳は、膳、レコード盤などの民俗資料370点、嘉永年間から昭和30年代にかけての文献資料1,310点、製紙工場に関わる文献や紙見本などの紙関係資料27点である。
  小澤家は、明治時代からの大地主だった家である。現在の富士市域にあっては貴族院議員をつとめた松永氏や堀内氏に次ぐ資産家だった。明治37年(1904)には静岡県内の多額納税者上位15名の中に名を連ねている。
  江戸末期から明治初年にかけて宇右衛門という当主がおり、財をなす礎をつくった。明治期、善蔵氏の時に土地集積を進め、地主として成長した。大正から昭和には孝三氏、戦後になって鼎氏がつづき、それぞれが、村長や村会議員など地域のおもだった役職に就いていた。
  現在、当主である方は海外在住のため、敷地・建物が平成13年度に富士市へ寄贈されることとなった。敷地には母屋のほか4棟の蔵があったが、これらの土地・建物については富士市管財課の管理するところとなり、当館では蔵に残されていた古文書、什器等を管財課から移管の形で受け入れた。
  4棟の蔵は、母屋の東に渡り廊下で通じているものが1棟、母屋の南に1棟、母屋の北に2棟が東西に並んで位置する。民俗資料として分類した資料は、主として母屋の東の蔵に、文献資料と紙関係資料は主として南の蔵にあったものである。北にある2棟のうち、東側の蔵は住居として賃貸されており、小澤家に関わる物は置かれていなかった。西側の蔵はかつて味噌蔵であったということだが近年は物置として使われていたとみられ、特に搬出すべき資料はなかった。母屋は火災に遭っており、搬出できる資料はなかった。
  ここでは文献資料を中心に利用し、小澤家について紹介する。

表門(平成13年) 建物の配置(平成13年)
(左)▲表門(平成13年)
(右)▲建物の配置(平成13年)


原田地区について

  原田地区は富士市のほぼ中心部に位置し、中央を富士山からの湧水を集める、水量の豊富な滝川が流れている。地区のほとんどを富士山の溶岩台地の傾斜地が占め、明治17年(1884)調査の『原田村・三ッ澤』では畑地が4割、田が2割弱の割合となっている。近世には沼津藩の所領であった。
  明治時代には、滝川の水を動力に利用しようという、東京の資本による大規模な製紙工場の建設候補地となった。地元の有力者が誘致に向け奔走したが、結果的にこの工場は「富士製紙会社」として市内の別の場所に建設されることになった。滝川の水を利用して製紙工場を、という誘致に尽力した人々の熱意はのちに、機械すき和紙の草分けといわれる原田製紙をはじめ、いくつかの製紙工場の設置を実現した。
  現在、原田地区となっているのは、近世には富士郡原田村と三ツ沢村だった地域であり、明治22年(1889)の市町村制の施行によりこの2ヶ村が原田村として編成された。このとき初代村長を務めたのが当時の小澤家当主善蔵だった。以降、原田村として昭和30年まで存続したが、この年、原田村を含む4ヶ村が吉原市と合併し、吉原市となった。なお、吉原市は昭和41年に富士市、鷹岡町と合併し、富士市となった。


大地主への成長

  富士市立中央図書館が所蔵する「旧原田村役場文書」から、明治初年までの小澤家についてみていくこととする。間隔が空く部分もあるが、万延元年(1860)から明治4年(1871)までの宗門人別帳から、原田村の村方三役と宇右衛門も石高を追ってみた(リスト1)。
  万延元年には、宇右衛門は2石余りで、この年はじめて百姓代になった。以後慶応3年(1867)まで8年間務め、明治元年(1868)と2年に組頭を務めた。石高の内訳は、田が8斗6升、畑が1石1斗7升5合、屋敷が5斗4升となってる(「原田村小前名寄帳」旧原田村役場文書B102 万延元年)。
  明治元年に百姓代から組頭へ昇進した。そして、宗門人別帳の記載を見る限りでは、翌年に40万1斗3合と持高を急増させている。
  つまり小澤家は、近世から名主や豪農のような階層ではなかったことが知られる。明治初年の持高の増大について、『原田村沿革誌』等では、小澤宇右衛門が三俵の米を元手に酒を売り、富を成すに至ったと紹介している。今回受け入れ資料中、宇右衛門の代にあたる時代のものは田地証文に限られ、酒を商った記録は残されていないため、その経緯は明らかではない。
  今回の受入資料の中から、土地経営に関わるものをみていく。
  所有地反別帳と冠した綴りが22冊ある。所有地を、村ごとに分冊して面積、地価、買入先等を記したもので、富士郡20ヶ村と駿東郡沼津町(現沼津市)、庵原郡小金町(現蒲原町)にわたっている。表紙には明治14年(1881)の年号が入っているが、さかのぼって文久4年(元治元-1864-)から、質入れ又は買入れの形で入手した土地が記載され、明治23(1890)までの記事がある。前途の宗門人別帳の記載では、明治2年から40石に増えているが、実際には江戸時代末期から集積を進めていたようである。
  20ヶ村のうち、原田村からは比較的距離が離れている三ヶ村(天間村、入山瀬村、今井村)は買入後、23年までにすべて売り渡している。23年の時点では宅地、山林等も含めておよそ70町余りを所有していた(リスト2)。
  22冊には通し番号等が付されていないのでこれ以外にも存在した可能性は考えられる。おそらくこの反別帳に引き続いて作成されたものとみられる、明治22年と31年の記事がある土地台帳7冊と、その索引簿が1冊ある。索引簿に記されていた村名と反別帳を対照すると、反別帳には大淵村が欠けている。大淵村分の反別帳が失われたのか、23年以降に大淵村の土地を買い入れたため反別帳が作成されなかったかは判然としない。いずれにしろ明治20年代初めには70町歩以上の土地を所有する地主となっており、明治22年の町村施行時に、宇右衛門の跡を継いだ善蔵は原田村の初代村長となっている。
  この反別帳のうち、比奈村分には明治19年(1886)に伊達文三からの買入記事があった。売り主の伊達文三は、富士市と沼津市の境に広がる浮島沼の水害を防ぐため、現在田子の浦港となっている沼川の河口に石水門を設置するのに尽力した人物の一人で、工事のために私財をなげうったとされている。記事には石水門の工事費の抵当であることが記されている。
  小澤家では、土地を買い入れるだけでなく、開墾事業も行った。居住している原田村のほか、今泉村、伝法村などにおいて、山林や原野を畑地へと開墾した。新たに開墾していた土地が、予想された収穫に達しない場合には、山林へ戻すことも行われた。
  土地の買い入れ台帳が現存しているものでは明治20年代までしかなく、大正13年の記録においても所有地が73町歩(渋谷隆一編「五十町歩以上の大地主」『明治期日本全国資産家地主資料集成Ⅳ』)と23年とほぼ変わらないことから、土地集積は明治20年代でほぼ終了しているようである。




山林における事業

  このように土地集積を進め、地主として成長する傍ら、明治20年代までは林業に携わっていたことがわかる。富士市と裾野市を結ぶ十里木街道は、富士山と愛鷹山の間の街道で、この付近から産出する材木と炭を商っていたことが知られる。標高900メートルの耕地であることから、堅く、しまった木材から作られる十里木炭は火力が強くもちがよいため、かつてはブランドとして料理屋などで重宝がられていたという。炭の他、材木の販売も行っていた。
  この文書は明治20年代までしかみられず、この時期までにこの商いから手を引いたものとみえる。明治20年代以降は、十里木より南方に広がる、かつて入会地として利用されてきた内山地区において、植林や茶・三椏の栽培といった開墾事業が進んでいく。内山の開墾事業には、近世以来入会地を利用していきた村として原田村村長小澤勝左衛門(宇右衛門の長女の婿)が組合に名を連ねているが、小澤家としては茶や三椏の栽培や養蚕といったこの時期の殖産興業に関わったことを示す資料はこれまでのところ見受けられない。


母屋の増築

  『原田村沿革誌』には、善蔵の娘小澤こうが、昭和3年に原田村善行者表彰を受けた記事がある。こうは、原田村婦人会の中心として活動し、大正から昭和初期にかけて起こった「生活改善運動」に力を入れたようである。「生活改善運動」とは、当時の文部相が推進した、欧米的な近代化を目指して、家庭生活を文化的に改善していこうとする動きである。
  小澤家では、昭和4年(1929)に母屋の西北部分に近代的な設備の台所を増築した。当時の台所は、土間にかまどや水がめがあるというものだが、今回受け入れた資料にある、増築図の設計図や見積書によると、この時増築された台所は、板ばりの床にレンガ造りのかまどが設置され、外見も洋風のしつらえとなっている。除臭換気器、冷蔵器などのパンフレットが設計図とともにあったことから、こうした最新設備も取り入れられたようである。
  自邸を改築したのみならず、原田尋常高等小学校の校内に私財を投じ、原田村婦人会模範台所を設けたことも『原田村沿革誌』に記されている。この台所は絵はがきになっており(写真)、村外にも広く周知することに努めたのであろう。生活改善運動を実践している人たちが遠方からバスで見学にきたり、小学生が遠足で見学に来たりすることがあったという。

昭和4年の増築部分(昭和13年) 増築にともなう設備のパンフレット類
(左)▲昭和4年の増築部分(昭和13年)
(右)▲増築にともなう設備のパンフレット類
富士郡原田村模範台所絵はがき1 富士郡原田村模範台所絵はがき2
▲富士郡原田村模範台所絵はがき


原田製紙の経営

  先に記したように、製紙工場の設立にも参加している。「富士製紙」の誘致計画が頓挫したのは明治20年(1884)のことだが、明治27年(1894)には早くも地元資本による原田製紙が設立され、小澤勝左衛門が取締役の1人を務めている。原田製紙は、日本で最初に機械すきで和紙を生産したとされ、当館ではその当時の抄紙機の模型を、常設展示している。
  原田製紙のほかにも製紙工場が次々に設置され、大正6年の調べでは、富士郡下15社18ヶ所の製紙工場のうち6社が原田村にあったようである。この6社で従業員は1000人近くにもなった(リスト3)。原田地区は現在も今泉・吉永などの地域と並んで製紙工場の分布の濃いところであり、明治時代における小澤勝左衛門ら原田村の有力者が築いたものは、県下第2位の工業都市の礎となったといえよう。
  戦前までの原田製紙では、ボロ布などを原料にナプキン紙を製造し、ナプキン紙の生産量では全国一を誇っていた。しかし、戦争中は企業整備令により、他の製紙工場と統合した。
  戦後は、丸合製紙、春日製紙などを経営していた今泉の久保田家が原田製紙を買い取ったが、経営は小澤家が引き受けることとなった。このため、今回の受入資料のうち原田製紙に関わるものは、小澤家が経営に携わった戦後から経営を退く昭和31年までのものに限られる。職階表や労働協約などの会社経営の書類が多いが、薄葉紙や果実包装紙など、この時期に生産された商品見本もある。新聞や書籍に使われた用紙以外は残りにくいため貴重である。
  『昭和32年度版 紙業興信大鑑』によれば、昭和32年における原田製紙の従業員は男性41人、女性22人、ナプキン原紙や半紙などの薄葉紙を中心に、月に80トン余りの生産量があったようである。


参考文献
富士市史編纂委員会『吉原市史』中巻 富士市 1968
旧原田役場文書(富士市立中央図書館所蔵)
鈴木富男「富士南麓の製紙史」 1989(未刊行)
富士市立博物館編『富士市の製紙業』 富士市立博物館 1991
大昭和製紙株式会社資料室編『大昭和製紙五十年史』 大昭和製紙株式会社 1991
『昭和三十二年度版 紙業興信大鑑』 日刊紙業通信 1957
渋谷隆一編『明治期日本全国資産家地主資料集成Ⅳ』 柏書房 1984
富士郡原田村役場編『郡誌編纂資料 原田村』 1913
富士郡原田村役場編『原田村・三ッ澤村村誌』 1953頃
王子製紙株式会社販売部調査課『紙業総覧』 成田潔英 1937
小山静子『家庭の生成と女性の国民化』 勁草書房 1999

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