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調査研究ノート№10(博物館だより№37より)

写生帳『百花写真』をめぐって


 第39回企画展「最後の脇本陣当主~吉原宿の鈴木香峰~」(H13.3.13~5.6)開催に向け、再調査を行った当館所蔵の脇本陣鈴木家旧蔵資料の中より、写生帳『百花写真』を紹介する。

 この写生帳は、紙本縦綴の形態をとり、寸法は縦が41.8㎝、横が30㎝である。全84葉の1枚1枚には、桜や牡丹、椿など多種の花々、鶏やリスといった鳥獣類、蝉・カブト虫などの昆虫類などが描かれている。表紙には「百花写真 甲申 碩峯」と書かれ、左下に「高峰 峯」という走り書きのようなものがある。数枚の本紙にも「文政甲申初秋月」、「文政乙酉二月十七日写」といった記述がみられるので、文政7~8年(1824~25)ころに描かれたものと目される。なお、“碩峯”という署名については、当館や市立中央図書館、鈴木家分家にあたる個人が分蔵している脇本陣鈴木家資料の中においても、今のところこの写生帳以外には見出せない。
百花写真表紙 百花写真 『百花写真』表紙(左)・第2葉(右)

 「高峰 峯」の書体は、表紙に書かれた他の字に比べ、墨色も涸れ気味で90度回転して書かれており、別の時点で書き加えられたもののように見える。同旧蔵資料の中には、「天保五甲午夏日 高峰蔵」と書かれている模写絵や、「嘉永二己酉孟春試毫 香峰惟忠書」という款記の後、「惟忠之印(白文方印)」、「高峰(朱文方印)」が捺されている書が存在する。

 『百花写真』が伝えられた東海道吉原宿脇本陣鈴木家には、幕末に宿場の問屋役を長年勤めた鈴木香峰(文化5年〈1808〉~明治18年〈1885〉)という人物が出ており、職を退いた後に山水画をよくしたことでも知られている。惟忠とは、香峰の諱(実名)であり、“高峰”は香峰がその制作年代の早い時期である嘉永2年(1849) ころ使用していた雅号であるということがわかる。現在知られている香峰の作品の多くは明治期〈1868年以降〉のものである。

 この写生帳が描かれた文政7~8年のころの香峰は、17~8歳という若さである。香峰が脇本陣鈴木家に養子に入ったのは22歳の時といわれており、このころはまだ江戸住まいだったはずである。江戸四谷の西念寺横町に住む幕臣・原権次郎の三男として生まれた香峰は、同じく四谷の大番町に住む旗本・大岡雲峯(1765~1848)に師事し、絵を学んだとされている。雲峯は篆刻家としても名高い高芙蓉(1722~84)の門人で、山水花鳥に長じたという。

 鈴木家からは、香峰におよぶ画に長けた人物の存在は確認されておらず、鈴木家旧蔵資料の中の模写絵や縮図のほとんどが香峰に関連するものであることを考えると、この写生帳も同類の資料であると考えられる。『百花写真』の筆者を現時点で推し量ることは出来ないが、香峰の画業を探る上で注目すべき資料であり、さらなる検討を加えていきたい。

(学芸員:高林 晶子)

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