![]() | 古郡重高・重政・重年(ふるごおりしげたか・しげまさ・しげとし)の三代が、富士川のこう水をふせぎ、新田の開発をするためにつくった堤防(ていぼう)です。大変な工事で、延宝2年(1674)にできあがるまで50年以上もの年月がかかり、人柱(ひとばしら)の言い伝えもあります。堤防の長さは約2700m、高さは5.5mから7.3mあります。堤防の形が、ちょうど雁(かり)がむれになって空を飛ぶ形ににているので「雁堤(かりがねづつみ)」とよばれています。岩本山の展望台から見ると、雁堤の形がとってもよくわかるよ。一度家族で行ってみるといいね。 |
![]() | さて、みなさん。左の写真はこわそうな顔ですが、見たことはありませんか?岩松小学校や岩松北小学校のみなさんなら一度は見たことがあると思います。これは、岩本山のふもとにある実相寺(じっそうじ)の山門(さんもん)にあります。実相寺は、日蓮上人(にちれんしょうにん)が一切経蔵(いっさいきょうぞう)へ入り、のちに「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を書いたことで有名なお寺です。この仁王像(におうぞう)は実相寺の山門の左右ひとつずつあり、ともに高さは2m40cmもあります。江戸時代の初めにつくられたもので、ひのきでできています。実相寺に行ったときはぜひのぞいてみましょう。 |
鎌倉時代(かまくらじだい)の力強さが表れている、とってもすばらしい仏像(ぶつぞう)で、国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)※です。高さは、84cmあります。像の中に墨で書かれている文字から、治承元年(1177)につくられたものとわかりました。また、山門や鐘楼(しょうろう)も黄檗宗(おうばくしゅう)の寺としては、富士市内でもめずらしい建物です。博物館の第一展示室には、この仏像のレプリカ(本物そっくりに作ったもの)があります。とってもいいお顔の仏様です。一度見に来てね。 ※重要文化財→文化財保護法という法律で大切に保存されているもの
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建久4年(1193)5月、源頼朝(みなもとのよりとも)が富士の巻狩り(ふじのまきがり)をもよおした時、曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)、五郎時致(ごろうときむね)が、兄弟二人で父のかたきの工藤祐経(くどうすけつね)を討(う)ちました。このかたき討ちにまつわって、このあたりには曽我八幡宮(そがはちまんぐう)、五郎の首洗い井戸(くびあらいいど)、玉渡神社(たまわたりじんじゃ)などのいくつかの史跡(しせき)があります。 | ![]() |
長さが88.9mあり、富士市内では八幡穴(はちまんあな)、不動穴(ふどうあな)とならぶ大きな洞穴(どうけつ)です。洞穴の中の、二重になっている「溶岩(ようがん)ブリッジ」は世界で4番目の発見で、研究の上で大切な洞穴です。 ※洞穴の中に入るには許可が必要です
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この絵は、江戸時代の歌川広重(うたがわひろしげ)という人がかいた浮世絵(うきよえ)です。この絵の場所は、今の富士市吉原の依田橋町(よだばしちょう)あたりです。江戸時代に、東海道を江戸から京都まで旅をする時に、富士山はつねに右側に見えていましたが、このあたりは道が大きく曲がっていたため、左側に見えました。このことから、このあたりを「左富士(ひだりふじ)」とよぶようになりました。博物館の第一展示室の一番奥に旅人が休む茶店があります。その横にこの歌川広重の絵があります。博物館に来たときぜひ見てくださいね。 | ![]() |
![]() | 今の吉原本町(よしわらほんちょう)商店街のあたりにありました。東海道(とうかいどう)で、江戸(えど)から15番目の宿場(しゅくば)です。慶長6年(1601)、宿場は元吉原(もとよしわら)におかれましたが、たびたびの津波(つなみ)やこう水により、寛永16年(1639)には中吉原宿(なかよしわらしゅく)、天和元年(1681)に新吉原宿(しんよしわらしゅく)として移されました。江戸時代も終わりに近い天保のころ、本陣(ほんじん)2軒(けん)、脇本陣(わきほんじん)3軒、旅籠(はたご)60軒があり、にぎわいをみせました。 |
![]() | 寿永3年(1184)、木曽義仲(きそよしなか)を討(う)つため、源氏(げんじ)の軍ぜいが東海道(とうかいどう)を西へ向かっていた時、梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)と佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな)が、頼朝(よりとも)からいただいた名馬(めいば)の磨墨(するすみ)、生月(いけづき)をめぐって馬くらべをした所と伝えられています。このあたりには、呼子坂(よびこざか)や平家越(へいけごえ)など、源平の合戦(げんぺいのかっせん)にまつわる地名が、いくつか残されています。 |
今から1400年ほど前につくられた、直径(ちょっけい)が17.5mの円墳(えんぷん)で、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の長さは9.5m、はばが2.2mあります。富士市内で横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を持つ古墳の中では、もっとも大きな円墳です。昭和60年に一部を修理し、もとどおりに直しました。 | ![]() |
大正時代(たいしょうじだい)、旧東海道(きゅうとうかいどう)ぞいの吉原伝馬町(よしわらてんまちょう)・現在の富士市中央町1丁目に、地域の医院として建てられました。外のようすは西洋風(せいようふう)ですが、和風(わふう)のたたみの部屋(へや)もあり、このころとしては、大変に新しい建物でした。博物館のある広見公園の中には、このほかにも市内に残るいくつかの大切な建物が移されています。 | ![]() |
![]() | 嘉永7年(1854)11月、日本に開国(かいこく)を要求(ようきゅう)するためにやってきたロシアの軍艦(ぐんかん)ディアナ号は、下田港(しもだこう)で安政の大地震(あんせいのだいじしん)のために、ひどくこわれてしまいました。船を修理するために西伊豆の戸田港(へだこう)へ向かったところ、強い風で流され、ついに宮島沖に沈んでしまいました。これを見た田子浦の漁師たちは、あれくるう海に勇敢(ゆうかん)に立ち向かい、ディアナ号の乗組員(のりくみいん)たちを助けました。この写真の錨(いかり)は、そのディアナ号のもので、昭和51年に、海の底から引き上げられました。高さは4.02m、重さが3t、くさりの長さは42mもあります。博物館にはこのディアナ号の模型と、田子浦の漁師たちが乗組員たちを助けている様子を描いた絵(想像図)があるから、ぜひ見に来てくださいね。 |
![]() | むかし、富士山信仰(ふじさんしんこう=富士山におられると信じられていた仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ)の力をたよって、幸せを願うという信仰)がさかんだったころ、富士山の登山者は、ここから富士山をおがみ、登山の安全と無事をいのりました。浜から拾ってそなえた小石でつみあげられています。また、近くには、大蛇(だいじゃ)のいけにえ伝説(でんせつ)の阿字神社(あじじんじゃ)、吉原湊(よしわらみなと)の見付跡(みつけあと)などがあります。 |
毘沙門(びしゃもん)さんは、家内安全・商売繁盛(かないあんぜん・しょうばいはんじょう)をあたえてくれる神と信じられ、江戸時代から人々は信仰(しんこう)をあつくしてきました。旧正月(きゅうしょうがつ)の大祭(たいさい)のダルマ市(いち)は、全国にも有名です。 | ![]() |
増田平四郎は、浮島沼(うきしまぬま)の水をほすため、明治2年(1869)、今の昭和放水路(しょうわほうすいろ)と同じ所に、スイホシという大きな排水路をつくった人です。しかし、この年の高波(たかなみ)のため、こわれてしまいました。江戸時代の終わりころには、高橋勇吉(たかはしゆうきち)が天文堀(てんもんぼり)をつくっています。浮島沼の水と人々のたたかいは続き、明治の中ごろには石水門(せきすいもん・六つめがね)がつくられました。 | ![]() |
今から1500年ほど前につくられ、全国でもめずらしい双方中方墳(そうほうちゅうほうふん)でまだ1つしか発見されていません。長さが40m、高さは中央部で3.5mあります。150mほど東に、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の山ノ神古墳(やまのかみこふん)があります。 | ![]() |
![]() | 善得寺は、今川義元(いまがわよしもと)が幼少期をすごした寺です。天文23年(1554)、甲斐(かい)の武田(たけだ)、駿河(するが)の今川(いまがわ)、相模(さがみ)の北条(ほうじょう)が、ここで同盟(どうめい)を結んだと伝えられています。永禄12年(1569)、武田氏が駿河にせめこんだ時、善得寺(ぜんとくじ)は焼けてしまいましたが、代々の僧(そう)の墓(はか)が残っています。善得寺公園(ぜんとくじこうえん)として整備されました。 |
![]() | 「千手(せんじゅ)」というのは、”手がたくさんある”という意味で名づけられたものです。この像は高さが112cmあり、室町時代につくられたと思われる、すぐれた作品です。このほか、妙善寺(みょうぜんじ)には、享和3年(1803)、比奈村の名主(なぬし)渡辺佳享(わたなべかきょう)が寺におさめた俳句(はいく)の額(がく)があります。そのころの、このあたりの文化活動を知るための大切な作品です。 |
富士市比奈(ひな)には、竹採伝説(たけとりでんせつ)が伝わっています。たけとりの翁(おきな)と竹から生まれたかぐや姫が、このあたりに住んでいたという伝説です。「竹採姫(たけとりひめ)」ときざまれた塚(つか)があり、その周辺は竹採屋敷(やしき)と呼ばれていました。かぐや姫という地名ものこされています。臨済宗(りんざいしゅう)中興の祖(ちゅうこうのそ)と言われている白隠禅師(はくいんぜんじ)の墓もあります。竹採公園として整備されました。 | ![]() |
太さ(目の高さの位置で)が6.2m、高さが26mあり、枝や葉がよくしげっています。「子育てのイチョウ」として、古くから親しまれてきました。秋にはみごとな金色に色づきます。 | ![]() |
今から1600年ほど前につくられた前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)で、長さが98m、高さ(後方部)が11mある、静岡県の東部でもっとも大きな古墳(こふん)です。東坂古墳(ひがしさかこふん)とともに、古代(こだい)スルガのクニの国王の墓と思われます。国の史跡(しせき)です。 | ![]() |