富士市立博物館では、20世紀の富士市のあゆみを写真を通してふりかえるシリーズの第3回目として写真展を開催しました。
テーマは「近代産業と交通」で、明治時代から新しく富士市が誕生して間もない昭和40年代までの、市内の近代産業と交通に関する写真資料(市民からの公募品・博物館所蔵品)や、歴史的な資料を展示しました。(会期:平成15年1月5日~3月2日)
展示資料は1階のロビーから年代を追って展示しました。また、写真展開催中の特別展示室の前では、川村功氏撮影・編集の身延線の映像もご自由に観覧できるように設置しました。
▲博物館特別展示室
明治22年2月、鈴川停車場(現JR吉原駅)が開設され、7月に東海道鉄道(今の東海道本線)新橋─神戸間が全通しました。
当地では入山瀬への富士製紙会社の建設に伴い、鈴川停車場から吉原を経て、入山瀬、大宮へ至る新しい交通ルート(大宮新道)と、それを軌道とする富士馬車鉄道が、明治23年開通しました。馬車鉄道とは物資の輸送はいうまでもなく、人々の交通手段としても大いに活用されました。
河川にかけられた橋、河川を行き来する船も当時は大切な交通手段の一つでした。河合橋は、沼川を渡る旧東海道の重要な橋でした。
富士川を上り下りする通船(富士川舟運)や渡船は、当地の交通や輸送を支えていました。東海道鉄道(現JR東海道本線)富士川鉄橋は明治21年9月に完成しましたが、まだ、人馬は以前として木橋や渡し船を利用していました。
▲開設直後の富士製紙(明治23年)
富士製紙会社第八工場(現王子製紙富士工場)が新設されたのに伴い、明治42年に富士停車場が開駅し、富士─長沢間も馬車鉄道で結ばれました。
大正2年には、富士身延鉄道(現JR身延線)が、富士─大宮(現富士宮駅)間を開通させ、新たな交通網が整備されていきました。また、この時代には、和紙工場の機械化が進められたり、今日の富士市内に見られるような製紙工場群の基盤が造られていきました。
▲富士鉄道(馬車鉄道)の様子(明治時代後期)
大正13年8月、富士川に、人や馬車、自動車を通す堅牢な鉄橋がかけられました。県道369号(旧国道1号)の富士川鉄橋がそれで、この鉄橋には、製作した大阪の橋架会社の刻印があり、80年もの間、風雨に耐え、現在に至っています。
製紙工場の技術は、いよいよ開発・改良が進められ、『紙のまち富士』は、一層の発展を見ました。昭和3年、富士身延鉄道(現JR身延線)富士─甲府間が全通しました。また、この頃、人々の行き交う交通手段としての自動車が登場し始めました。一方、当地の物や人の輸送の一端を担っていた馬車鉄道は、この頃より次第に姿を消しました。
現在の大昭和製紙は、昭和13年、昭和製紙をはじめとする5社の合併により設立されました。
戦前・戦中の統制下に、当地の製紙工場は、軍需工場にかえられたり、縮小・統合を受けたりしました。また、昭和18年には、軍需工場として東芝富士工場や日産自動車が造られました。これらの工場は、終戦後、様々な形で元来の生産に復元されました。同時に新たな製紙工場も次々と設立され、製紙をはじめとする工業として一段と活気に帯びてきました。
岳南鉄道は、昭和24年に一部開業の後、28年鈴川駅(現JR吉原駅)から岳南江尾駅までが開通しました。この鉄道は、沿線の工場に原料や製品を輸送し、市内東部地域の工業発展に貢献しました。
昭和39年に東海道新幹線が開通しましたが、利用するためには、静岡駅や三島駅まで行く必要がありました。昭和63年3月、富士市民の長年の夢が実現し、新幹線新富士駅が開業しました。
東名高速道路は、昭和43年4月に富士─静岡間が開通、翌44年に全線開通し、当時、飽和状態であった国道1号の交通量を緩和させました。
身延線は、昭和44年9月28日に、東回りから西回りに路線が変更されました。東回りの路線跡地は、現在「緑道」として利用されています。
田子浦港は、昭和33年より東駿河湾工業地帯の「工業港」として建設が進み、昭和36年8月4日開港しました。昭和39年、重要港、昭和41年、関税法による開港指定と、国際貿易港として順調に発展しました。
▲身延線旧本市場駅(昭和44年)