調査研究ノートtopへ 調査研究ノート№2へ 調査研究ノート№4へ
調査研究ノート№3(博物館だより№33より)

旧富士郡下の蚕糸業~山梨県との交流をめぐって~


はじめに

現在の富士川流域概要図 博物館で平成9年秋に開催された「夢を紡いだ時代」という企画展では、 旧富士郡(現在の富士市・富士宮市・芝川町)において 主に明治大正期に盛んに行われた養蚕や製糸など蚕糸業 という産業について紹介しました。 この調査にあたり蚕糸業にまつわる技術や人の交流が、 旧富士郡と山梨県との間で盛んに行われていたことがわかりました。 両者の間では、 古くから富士川や富士川沿岸の街道などの交易路を利用して交流が行われてきたのです。 そこで今回は、蚕糸業にまつわる旧富士郡と山梨県の交流について報告します。
▲現在の富士川流域概要図

1.山梨県に求めた技術

『静岡県蚕糸業沿革史』には、 明治16年(1883)静岡県初の養蚕伝習所が 富士郡岩松村(岩本村の誤りとみられる)に開設されたと記されています。 この伝習所の設置は、 同村の影山秀樹と山崎農夫藏が同14年(1881)山梨県で行われた 東海農区連合共進会の審査に赴いて、 静岡県の養蚕技術の遅れを目の当たりにしたことが発端となっています。
伝習所の開設に奔走した影山秀樹は、 明治13年(1880) ごろ、製糸業と機織業を業務内容とする株式会社富士勧業社を 仲間と共に設立しました。 秀樹は安政4年(1857) 富士郡岩本村の影山与次平の長男として生まれ、 徳川藩が創設した沼津兵学校の付属小学校に学んだ後、 甲州南部村(現山梨県南巨摩郡南部町)の旧名主・近藤喜則が営む私塾蒙軒学舎で学びました。 近藤は地方開発に励み桑樹の栽培などの農事改良に努めた人物でした。 秀樹はこうした近藤の姿勢に多くを学んで、岩本村に戻り、 茶の栽培などを経て村内外の有志と共に勧業社を設立したのです。
勧業社は、 必要な道具類や技術の導入を山梨県郡内地方の谷村(現山梨県都留市)に求めました。 女工もはじめは郡内から雇いましたが、後には郡内よりも地域的に近く、 この地域での製糸業の中心地だった大宮町の製糸工場から引き抜いて雇い入れました。 養蚕農家が副業的に取った生糸も買い上げて機織部門に回し、 谷村から導入した織機と職工の技術によって海気=甲斐絹を生産し 袱紗などを製造しました(『富士市史下巻』より)。

2.山梨県からやってきた人々

富士宮市万野原新田の養蚕農家では、 蚕が3齢半ばを過ぎると山梨県郡内地方(現都留市・富士吉田市などを含む山梨県東南部一帯)から 世話人を通じて嫁入り前の娘を2人ほど手伝いに頼んだそうです(昭和初期)。 娘たちは収繭まで2週間ほど手伝い、郡内へ帰ると自分の家の養蚕を手伝いました。 これは万野原新田の標高が200~300mなのに対し、 郡内地方の標高が900m前後と季節の到来に差があるためであり、 両者の気温差を利用した興味深い労働交流といえます。
旧富士郡は、県内有数の養蚕地帯に成長したことに加え、 豊富で清涼な湧水に恵まれた好条件が重なり、 製糸業が比較的盛んに行われた地域でもありました。 旧富士郡で蚕糸業やこれにまつわる商売に携わった人物のなかには、 山梨県出身者が多く見られます(表1参照)。
岳南地方の各方面の功労者を紹介した『嶽雪之露滴』には、 弘化3年(1846)山梨県西八代郡豊和村黒沢に生まれた高野喜右衛門が、 明治5年(1872)富士郡大宮町に移住し、同8年(1875)養蚕を始め、 生産した繭から島田糸横糸、座繰糸を製造して東京府八王子へ廻送したと記されています。 明治13年(1880)には、製糸工場を建築し(昭和5年初版の『大宮町誌』では明治19年開業と紹介されている)、 山梨県南巨摩郡楮根山の製糸工場閉鎖により解雇された女工などを集め、 大宮町に50人取りの製糸工場を開きました。 その後横浜の小野光蔭と取引をして生糸を海外へも輸出しました。

 おわりに

蚕糸業とその周辺にまつわる旧富士郡と山梨県の交流について概観しますと、 この産業については山梨県が先進的で、 旧富士郡は技術や知識を山梨県に求めていたことがわかります。 また先進技術を会得した山梨県出身の人物が、 旧富士郡に蚕糸業関係の産業を興した例も見られました。
静岡県内には、蚕糸業が盛んに行われた地域として 旧富士郡と地域的に近い伊豆や旧駿東郡などがありましたが、 旧富士郡は技術の導入を県内からはあまり行っていません。 これは旧富士郡に県内初の養蚕伝習所が開設されるなど、 この地域が県内蚕糸業において先駆的役割を担ったためとも考えられます。 そして旧富士郡が静岡県蚕糸業の草創期にこのような先駆的立場をとれたのも、 富士川や富士川沿岸の街道などでつながる山梨県との交流が深く、 養蚕先進地の情報も得やすかったという要因があるのではないでしょうか。

(学芸員:高林晶子)
〈表1〉旧富士郡の蚕糸業界とその周辺における功労者(昭和15年刊『嶽雪之露滴』より作成)

人 物 名  出 身 地 主  な  業  績
佐野瑛 山梨県西八代郡栄村 『大日本蚕史』の著者
影山市郎兵衛 静岡県富士郡岩本村 養蚕業の進歩発展に尽力
池谷佐平 〃 大宮町 富士郡蚕糸業組合設立に尽力
高野喜右衛門 山梨県西八代郡豊和村 高野製糸工場設立
佐野鍬太郎 静岡県富士郡上野村 蚕糸業組合役員歴任など蚕糸業界に貢献
中澤基之 山梨県東八代郡一之宮村 中澤式製糸機械発明
渡邊一郎 静岡県富士郡富士根村 渡邊製糸工場設立、生繭販売業など
流石義秋 山梨県南都留郡勝山村 糸繭商
小野田仁三郎 静岡県富士郡富士根村 座繰製糸工場設立
池田正太郎 〃 上野村 池田製糸場工場主
前田亀一 山梨県南都留郡宝村 生糸問屋
加藤智英 〃 西八代郡栄村 羽二重縮緬の織物工場設立
羽田甚平・雄正  〃 南都留郡明見村 羽田絹布織物工場設立
池田新吉 静岡県富士郡上野村 富士郡糸繭組合、大宮町糸繭売買組合要職
伊藤重次郎 山梨県甲府市桶屋町 糸繭商
池田雄市 静岡県富士郡上野村 丸池座繰製糸工場設立
塩川平太郎 静岡県富士郡大宮町 静岡県蚕糸取締所議員など
山川忠一 〃 生繭の売買、生糸の製造業
久保田福次郎 〃 羽二重伝習所及び工場の設立
渡邊里次郎 〃 富士郡蚕糸業組合事務員など
長村本治 〃 富士縮緬織羽二重織物問屋
遠藤民藏 〃 富士町 蚕蛹製錬工場設立
大井郡太郎 〃 北山村 大日本蚕糸会静岡支会富士委員部長など
山下秀索 〃 大宮町 山下製糸工場設立

このページtopへ