小・中学校では、総合的な学習への移行期をむかえています。
総合的な学習では、地域の素材に着目して、自らの課題を追求することが重視されています。
博物館では、地域素材についての資料・情報を提供し、
総合的な学習のヒントになるような支援をしていきたいと考えています。
今回は、富士梨についてです。
明治時代になり、宿場制度が解体される一方、作物栽培制限の撤廃、地租改正などが行われ、
換金できる商品作物の生産が必要とされるようになりました。このような状況の中で、
水戸島の塩澤茂三郎は、私財を投じて庵原郡袖師村から梨の苗木を取り寄せ、試植しました。
これが、富士梨のはじまりです。
やがて、この富士梨づくりは、岩松、田子浦地区などにも広がり、
比較的早めに収穫できたり、関東・関西両市場へ出荷できたりする地域性を生かして、
北は東北から、南は九州という広い範囲に販路がのびるまでになりました。
その後、第二次大戦中の米を中心とした食料増産政策の影響を受け、
富士梨の歴史はいったん終息しますが、戦後、再び富士地区の特産品として復活しました。
現在では、品種も長十郎から幸水・豊水・新水などに移り変わっています。
このような歴史をもつ富士梨ですが、いくつかの学区をまたぐ地域素材として、 次のような学習材としての追求の窓口・方向性が考えられます。
今日的にいえば、地域おこし、村おこし的な要素を含んでいます。 当時の農民たちの工夫・苦労がしのばれます。富士市内の場合、農業ではお茶、 それでは、工業ではどのような産業が登場したのだろう?という課題で、 製紙業のあゆみに着目することもできます。
商品作物としての有効性が認識されると、大正年代には、
加島、田子浦村の8割ほどの農家が生産をするようになりました。
古地図で梨の生産分布をながめたり、富士駅名物として富士梨を売っている
古写真を見たりするのもよいでしょう。
現在の富士梨の出荷風景
かつては、梨の品質を鶴・亀・松という特色のある呼び方で分けていました。
輸送は、肥料の入手にも一役かった牛が活躍し、梨の木箱を鉄道の駅まで運びました。
現在の、梨の段ボール箱梱包とセット化された自動車交通による宅配システムの普及と
比較するのも意義があることでしょう。
梨の箱にはられたレッテル