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調査研究ノート№5(博物館だより№30より)

吉原祇園祭~オテンノウサン~


1.祭日と祭のいわれ

今年の祇園祭は週末の6月8日・9日に行われ、 8日に子どもと大人の山車の引き回し、 9日にオテンノウサンと呼ばれる神輿の渡御と大人の山車の引き回しが行われました。 昨年からは担ぎ手を公募して女神輿を取り入れ、祭の活性化を図っています。 昭和30年代までは6月10日から14日まで祭が続き、13日・14日がアタリビでした。 この頃は祭前半に子どもの神輿、13日から山車、14日には大人の神輿が出て賑わいました。
このように吉原祇園祭は6月中旬に行われます。 現在吉原の人々は、祭のいわれや意味をあまり意識していないようですが、 全国各地で行われる祇園祭が、夏を前にした厄払いの祭と考えられていることから、 吉原祇園祭もおそらくこの系統の祭であることが考えられます。
 またこの祭はオテンノウサンとも呼ばれて親しまれてきました。 オテンノウサンとは、天王社の祭神で疫病除けの守護神牛頭天王を指します。
 このように吉原でもおそらく江戸時代に、 疫病が流行するなど世の中が不安定だったころに、 天王社の祭神をどこからか分祀して、この地で祀ってきたのでしょう。

2.祭にかかわる人々

各神社の氏子町内 図1

この祭は、吉原の町に点在する 天満宮・木之元神社・山神社・八幡神社・八阪神社の五社の氏子で行います。 五社はいずれも江戸時代から吉原の町を見守ってきました。 各神社の氏子町内は、図1の通りで、 これら24町内総出で祇園祭が営まれます。 複数の氏子町内をかかえる神社では、年番制で当番に当たる町内があり、 当番町は祭の会計、神社や神輿の準備など裏方の責任を担います。
 昭和22年生まれの西本通りの男性が青年の頃は、 町内には元老・中老・青年という年齢階層が今よりもはっきりとあったといい、 今でも大方この年齢階層毎に祭の準備・運営の中で暗黙の内に役割を分担します。 今年の木之元神社の当番町西本通りでは、 元老はおよそ70代以上で町内の諸々の役目は引退した年代、 中老はおよそ40代から60代の町内の役員を務めるような年代、 青年は20歳前後からおよそ30代までの年代を指すようです。
 ここではオテンノウサンを中心に紹介します。

3.祭の準備とオテンノウサン

 5月に入ると各町内では お囃子の練習をします。 昭和40年代後半まで子どもはお囃子に参加できなかった町内もあるようですが、 今は祭を担う青年が減り、多くの町内で青年や中老が子どもにお囃子の指導をします。 この後青年たちも当日の打ち合わせを兼ねて練習を行い、祭に備えます。
祭前日6月7日の朝、西本通りでは 青年が主となって神社の参道や神輿に取り付ける竹を採りに行きました。 木之元神社では、神輿は山車と違い神社で1つなので、 当番町が準備をするのです。 竹を採る所は、毎年神戸の竹林のある家に依頼してあり、 竹の謝礼を祭の費用から出します。採って来た竹は早速神輿に取り付けます。
 祭初日6月8日の朝、木之元神社では 各氏子町内の氏子総代、町内会長などが出て、神社境内の清掃や飾り付けを行い、 各町内では中老や青年が玄関先に広い土間のある家を借りて会所をつくっていました。 会所には仮の祭壇が設けられ、供物が供えられます。 会所はオテンオウサン揺すり出しの場所で、 この時神が休む所であると同時に、町内関係者の詰め所となります。
 6月9日の早朝、西本通り の会所に青年・中老が集まり、 トラックに太鼓を積んで青年が太鼓を叩きながら浜(田子の浜)に向かいました。 浜では、青年長が海に入り一升瓶に清めの潮水をくみ、 全員が浜で酒を飲んで体を清めます。 これをハマオリといい、祭を始める前の清めの行事です。
大正11年生まれの東本通り2丁目の男性は、 ハマオレ(ハマオリと同じ意味)は60年位前まで、 町内中でお囃子を奏でながら屋台を引き、鈴川まで行ったといいます。 この潮水は神輿を清めるのに使うほか、組長経由で各戸に分けられ、 神棚へ供えられました。

オテンノウサンを揺する ▲オテンノウサンを揺する

6月9日正午、木之元神社では 各氏子町内の氏子総代、町内会長、青年長が揃い、 神輿に神を迎える降神祭が行われました。 儀式が終わるころになると、神輿の揺すり出しを告げるフレダイコが、 最初に揺する新追町に向かいました。 その後を当番町の青年たちが、神が降りて“オテンノウサン”となった神輿を、 揺すらずに新追町の会所前まで運びます。 会所前で再び神事が行われ、 最初に新追町の青年長がハマオリの潮水をオテンノウサンにかけ清めると、 新追町の青年たちによりオテンノウサンが揺すり出します。
新追町が町内を1周して揺すり終わると隣の西仲町に交替しました。 この時揺すり手の青年や各町内の人々が、 オテンノウサンから笹をむしり取っていきました。 これは魔除けの笹と言われ、この1年悪い事が起きないようにと、 昨年のオテンノウサンの古い笹と取り替えて玄関先に挿すのだそうです。 この後オテンノウサンは木之元神社の氏子町内を順に回り、 最後に神社に戻り帰社祭が行われました。
かつて各町内に子ども用の神輿があった時には 子どもはもちろん青年までこの軽い神輿を揺すり、 祝儀の少ない家や祭に非協力的な家の壁にわざとぶつけるなど大騒ぎだったそうです。 またこれはケンカミコシとも言われ、 揺すっている時に町境で隣の町内に出くわすと、神輿のぶつけ合いとなり、 負けた町内は神輿を取られてしまい、 後で氏子総代などの上役が酒を一升携えて頭を下げ、 ようやく返してもらったという話も聞かれました。
 疫払いの祭は、激しくにぎやかに祀ることで、 より御利益があると考えられているようです。

4.成長していく子どもたち

八幡神社氏子の東横町(東本通り3丁目)の記録によると、 明治中頃まで祭の費用は青年が自分たちのお金を出していた事が解ります。 吉原の子どもたちにとって祇園祭は、 こういった祭を担う青年の自立した姿を見ながらいつしか自分も青年となり、 この祭を通して成長し、一人前になるという要素があったと思われます。 地域の絆が細くなり家族でさえ心の通わない事もある現代、 一つの祭を通して町内が一丸となるなど、なかなか経験できなくなってきました。 かつて村落共同体の子どもたちにとって、躾ける親は肉親だけでなく、 共同体中の大人全員だったといわれます。 共同体の中で様々な経験をし、大勢の“親”に見守られて成長していく、 そんな暖かいまなざしが、この吉原祇園祭には注がれているといえるでしょう。

(学芸員:鈴木 晶子)

参考文献:日本民俗文化体系9『暦と祭事=日本人の季節感覚=』(小学館)、鈴木富男 著『東海道吉原宿』(静岡新聞社出版局)、民俗学研究所編『年中行事図説』(岩崎美術社)、川口謙三編著『日本神祇由来事典』(柏書房)、植田昭夫著『ひびけ祇園太鼓-吉原町東横町沿革史』

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