博物館第1展示室の「街道と宿場」コーナーには、江戸時代の書類が展示されています。今回はその中のひとつ「御上洛ニ付御供奉御役人様方御宿割人馬割帳」を紹介します。
この資料は、幕末の文久3年(1863)12月18日に、当時の吉原宿問屋(*)の伊兵衛によって記され、吉原宿の脇本陣だった野口家に伝来したものです。内容は、将軍家茂上洛の道中において、宿泊する宿の割り振りと12月19日から翌正月5日までの川崎宿、神奈川宿での人馬の割り振りが記されています。
幕末の将軍上洛は、14代将軍による家光以来230年振りの文久3年2月、同年12月、15代将軍慶喜による慶応2年(1866)の将軍宣下などがあります。将軍上洛は、御茶壺道中や日光社参と共に幕府の権力を誇示する目的が大きかったようで、安政の開国などで幕府の絶対的権勢が揺らいだ幕末には、頻繁に行われたとされています。この様な未曾有の大通行が続いたことは、その度に大量の人馬を調達する街道の宿駅には大変な負担でした。
この資料を記した問屋伊兵衛とは、脇本陣鈴木家当主で晩年には山水画でも名をはせた香峰と同一人物と見られます。香峰は、三島宿より府中宿まで9ヶ宿の組合宿々取締役として品川宿の山本伴蔵(品川から箱根まで組合宿々取締役)と共に当時の宿駅の苦しい実状を報告し、負担の軽減を何度も訴えています。
結局この時の上洛は往路復路共に軍艦が使われ、大行列が東海道を通行することはありませんでした。
*主に公用の荷物や書状を順に各宿の人と馬で次の宿場に送り継ぐ伝馬制度において、人馬の手配を行い駅長のような仕事をした人。