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調査研究報告№11

富士写真フイルム株式会社今泉工場の30年

当館学芸員 工藤美奈子

はじめに

  当館では「紙のまちの博物館」として、紙や製紙業に関わる資料の収集、また展示会の開催などを行ってきている。この一環として、平成13年度に第40回企画展「刻・刷・伝(きざむ・する・つたえる)~紙と印刷をめぐって~」を開催した。展示では、印刷の歴史に関わる地元の資料のひとつとして、太平洋戦争終戦直後に富士市内の工場で製造されていたとみられる紙幣(注1)を紹介したが、展示会終了後に、この紙幣用紙の製造に携わっていた百瀬昌一氏からお話をうかがう機会を得た。
  百瀬氏は、富士写真フイルム株今泉工場に勤務し、工場長も務めた方である。今泉工場では、戦争中から戦後の一時期、国からの仕事を請け負って地図や紙幣の用紙を製造していたが、工場が解散してから30年以上が経ち、建物も残っていないため、記憶する人も少なくなっていくであろう。ここで、氏がまとめたレポート及び談話を紹介し、他の文献にも依りながら、富士市の製紙業史の一端として記録しておきたい。


今泉工場のあらまし

  富士写真フイルム株式会社は世界的な企業であるが、この会社名を見てまず思い浮かぶのは、写真撮影に使うフイルムなどであり、紙幣用紙を製造していたという、製紙業との関わりについて疑問が生ずるかもしれない。しかし、写真はネガの画像を印画紙に焼き付けるものであり、印画紙の製造も同社の主要な事業の一つとなっている。
  日本では戦前まで、印画紙を輸入に頼っていた。富士写真フイルム株式会社ではこれを自給しようと、印画紙の原紙を製造する工場として、昭和14年、富士郡今泉村に今泉工場を設置した。
  富士郡今泉村は、かつて東海道の宿場・吉原宿があった地域に隣接する村で、昭和17年には合併により吉原町となった。工場があった付近は富士山からの地下水が湧出し、工場敷地の北側から東側にかけてを囲うように流れる田宿川も、湧水を集めて流れる川である。今泉村は、この湧水を利用して、明治時代以来、盛んに製紙工場が建てられた地域である。
  現在の富士市域は明治時代より、近代的な洋紙生産工場と機械すき和紙製造業が勃興し、昭和初年にはすでに全国的に見ても一大製紙業地帯となっていた。昭和14年には今泉村だけでも26か所の製紙工場があり、『吉原市史』では今泉工場の設置について「日本一の製紙工業地帯へこうした企業の進出をもたらした」との見方を記している。
  今泉工場はおよそ30年にわたって操業したが、昭和39年に静岡県富士宮市に新工場が完成してその機能は移転することとなり、同43年に解散した。

『大昭和製紙株式会社』
写真上が南となる。左上が今泉小学校。その下が富士写真フイルム株式会社。右側が大昭和製紙株式会社。両工場とも、現在は店舗となっているが、この周辺は今も製紙工場が多い。昭和38年 写真提供:大昭和製紙株式会社


今泉工場設置の経緯

  写真印画紙の製造は、まず原紙となる紙に硫酸バリウムなどを塗り、バライタ紙という印画紙原紙を作る。これに乳剤を何層も塗り重ねたものが印画紙となる。焼き付けの時にも薬品や水にさらされるため、原紙の品質には高いものが要求されるのだという。
  富士写真フイルム株式会社では、より品質のよい印画紙を作るため、輸入に頼っていた印画紙原紙を自社製造する計画を立て、昭和10年、内閣印刷局抄紙部(紙幣を製造していた部署)に勤務していた経験のある片倉健四郎氏を、ヨーロッパへ派遣した。片倉氏は帰国後、富士写真フイルムの主力工場である神奈川県の足柄工場でドイツ人技師と共に研究を行った。ここまでの試作研究で目指したのは原紙に塗布加工をしてバライタ紙を製造する、というものだったが、折しも昭和12年、日中戦争の影響で三菱製紙から購入していた原紙が入手困難になった。
  このため、原紙の段階から自社生産しようと、足柄工場の敷地内に原紙製造工場を建設することを計画したが、戦時下であることから新たに工場を建設するには制限が多かった。そこで既設の工場を探していたところ、静岡県工業課から、遊休工場となっていた今泉村の北辰製紙の工場を紹介された。
  この北辰製紙は厚紙を製造していた板紙工場だったため、抄紙機は印画紙原紙の製造には使えず、機械の改造が必要となる。しかし、工場用水に恵まれている点と、周囲の環境も良好であるとのことから、この工場を買い取ることになり、昭和14年5月、28万円で買收するに至った。

『片倉健四郎氏』
▲片倉健四郎氏(左)写真提供:川島卓次氏


戦時中─軍用用紙の生産─

  こうして、富士写真フイルム株式会社今泉工場として、印画紙原紙の製造に向けての準備が進められていくことになった。北辰製紙で使われていた板紙の抄紙機は売却し、新たに大阪の鉄工所へ抄紙機が発注された。製紙原料を作るビーターなど、他の設備も整って試運転を行ったのが、昭和16年9月である。この設備が順調に稼働していけば、製造された原紙は足柄工場で加工され、印画紙の自給化が可能になるはずだった。
  ところが設備が整ってまもなくの昭和16年12月、太平洋戦争が始まった。戦時下、製紙業は「不要・不急産業」として企業整備令の対象となり、軍需工場に転換したり、他の工場との合併を余儀なくされることとなった。
  今泉工場も、原紙製造は中止せざるを得なくなった。こうした状況のなかで、この後の今泉工場の方向性を位置づけたのは、当時今泉工場長を務めていた片倉健四郎氏だった。片倉氏は内閣印刷局抄紙部に勤めていた経歴を活かして印刷局との交渉を進め、今泉工場では昭和17年4月から印刷局の場外作業を請け負うことになった。内閣印刷局は現在の東京都北区王子にあり、爆撃の対象となるおそれから、地方に場外作業上を設けることにしていたのである。
  今泉工場は、昭和19年~20年にかけては印刷局の場外作業場のほか陸軍陸地測量部の指定工場にもなり、軍用の地図用紙等の注文が相次いだ。軍部の仕事を請け負っていたため原料、薬品、燃料などが国から支給され、操業は順調であったという。昭和20年1月には、隣接する富士製紙工業株式会社を買收合併した。このころ従業員も最も多く、500人余りが働いていたが、それでも人手が足りず、吉原の宿場で働く芸者までもが、頭を結ったままで製品検査に従事していたという。(注2)


終戦後─大蔵省管理工場へ─

  こうして、今泉工場では戦時下、軍用の用紙生産に携わってきたが、終戦後も引き続いて、印刷局の指定工場として紙幣用紙の製造にあたることになった。
  紙幣の製造は、全国で統一された紙幣が作られた明治初年以来、一貫して国が行ってきたが、太平洋戦争中から戦後にかけて民間委託された時期があった。ここで、この事情について、『大蔵省印刷局史』、『凸版印刷株式会社六拾年史』から拾い上げてみる。
  戦時下、占領地域で紙幣を発行したり、金属を供出するため硬貨が紙幣に切り替えられたりするなど、紙幣の需用は増えていった。印刷局では工場を新設する対策をとったが、それでもなお不足する分を民間の会社に委託することとし、こうした事情から、いくつかの製紙会社と印刷会社が国から管理工場の指定を受け、昭和20年代半ばまで紙幣の製造を請け負っていたのである。
  現在の富士市にあたる地域では用紙製造を委託された工場が3か所あったが、富士写真フイルム株式会社今泉工場がそのひとつだった。昭和21年3月に大蔵省管理工場となり、管理官が常駐するなか、紙幣用紙製造を受託することとなった。
  製造された用紙に印刷をしていたのは、凸版印刷富士工場だった。この工場は、凸版印刷の重役の1人が大昭和製紙の重役を兼ねていたため、大昭和製紙富士工場(注3)を疎開先として操業していた。占領地の紙幣や軍票など、軍関係の印刷業務を請け負っており、戦後も昭和28年までこの地で操業した。
  今泉工場で生産された紙幣用紙は、毎日3トントラックで凸版印刷の工場に運ばれ、印刷作業が行われた。凸版印刷富士工場では印刷した紙幣の検査も行われていたが、7人並んで7回検査するという厳重なものだったという。
  この時期は戦後で物資の乏しい時期だったにもかかわらず、大蔵省管理工場となっていた今泉工場では、燃料の入手なども優遇を受けていた。ただ、冬期渇水の折には水力発電から供給を受けていた電力が制限されることがあり、そうした場合には生産量の減少はまぬがれなかったという。
  また、戦時中に軍用地図用紙を製造していた実績から、戦後になって米軍の地図用紙にも採用された。この時には米軍の担当者が来社し、製品を靴で踏んだり、自動車で轢いたり、というような検査の末、地図用紙に足る丈夫な紙であるとして採用が決まったという。


場外作業引き上げ後の今泉工場─高級紙工場としての操業と、富士宮市への移転─

  大蔵省からの仕事のほかに米軍からの受注などがあり、今泉工場の生産は戦後になっても順調なものだった。
  しかし、昭和22年頃から印刷局場外作業の引き上げが徐々に始まった。国からの受注が絶えた場合、富士写真フイルム株式会社として、どのような方向で操業していくかが課題となり、本来の目的であった印画紙原紙の製造工場となるか、また、これまでの経験を生かした高級紙工場(注4)として操業していくかなど、いくつかの案が検討された。
  結果的には富士写真フイルム株式会社全体としてのバランスを考慮して、高級紙工場としての方針が固められ、抄紙機の改修人員整理が行われた。
  このころに、今泉工場では天皇の著作の本文用紙を製造する機会を得た。このときには、機械に注連縄をかけ、従業員は洗い立ての作業着に身を包んでの作業で、この機会により、高級紙製造メーカーとしての富士写真フイルムの名声が高まったという。
  印刷局からの受注は昭和24年には終わったが、高級紙や写真関連の紙を製造する工場としてその後も順調に操業した。しかし、今泉工場はもともと印画紙原紙を製造する目的で設置されたため、富士写真フイルム株式会社としてはやはり印画紙原紙生産工場への要求があった。この対策として新工場が計画され、いくつかの候補地のうち、主力工場である足柄工場に至近で、今泉工場と同様に豊富な用水が得られる地として静岡県富士宮市が選定された。昭和39年、10万坪の敷地をもって建設された富士宮工場が稼働し、のちに今泉工場の機械も移設され、今泉工場は同43年に解散することとなった。

今泉工場正門 今泉工場の運動会 建設途中の富士宮工場
(左)▲今泉工場正門
(中)▲今泉工場の運動会
(右)▲建設途中の富士宮工場
写真提供:百瀬氏


  以上が、かつて今泉にあった富士写真フイルム株式会社今泉工場の概略である。すでに解散後30余年が過ぎ、跡地も商業地となり面影はない。製紙業界では解散や統合、買收といった動きが激しく、明治時代後期からのこの地域での製紙業史を一目で表すのは難しい。今回は富士写真フイルム株式会社今泉工場というひとつの「点」についての記録であるが、このような「点」の調査を積み重ねる中で、また新たな製紙業史を紡ぎだして行くことにしたい。


本文注
1、紙幣は、財務省印刷局記念館「お札と切手の博物館」より借用し、展示した。
2、軍の仕事を請け負っていることから、今泉工場の従業員は徴兵されないため、徴兵
 逃れのため働きに来る者もいたという。
3、現在は大興製紙株式会社となっており、大昭和製紙富士工場はその東側に位置する。
 なお、平成15年4月、大昭和製紙株式会社は、日本製紙株式会社となった。
4、高級紙とは、カレンダーや美術印刷用などに用いられる紙。

参考文献 『富士フイルム50年のあゆみ』富士写真フイルム株式会社 1984 『凸版印刷株式会社六拾年史』凸版印刷株式会社社史編集委員会 1961 『図録 お札と切手の博物館』大蔵省印刷局総務部記念館 1997 『大蔵省印刷局史』大蔵省 1962

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