富士市立博物館では、以前より、教育関連資料の収集と整理に取り組んできた。そして、平成12年度に開催した「20世紀写真のなかの富士─学び舎のあの日─」展に際して、富士市内の学校や教育関連施設をはじめ、広く教育関連資料の提供を呼びかけたところ、以後、いくつかの情報や寄贈品がよせられるに至った。本稿では、平成13年度中に本館に寄贈された教育関連資料の中からいくつかを取り上げ、その内容と資料価値の一端について紹介していくことにする。
市内一色の藤田誠一氏からは、『明治七年 小學讀本 文部省』、『明治八年一月 小學入門 乙号 文部省』、『明治一三年版権免許同三月二十日出版 久松義典編 新撰小學讀本』、『綾部関編 小学地誌略 万国之部下 静岡博雅堂蔵』、『静岡県学務課編 児童心得 全 吉原書林 橘香堂蔵版』など、明治時代初期を中心にした教育関連書籍が寄贈された。これらの資料は、平成12年度に藤田家から富士市教育委員会文化振興課への申し出によってその存在があきらかになったものである。この後、同じく一色在住の杉山静男氏寄贈の「明治初年小学校掛図」の調査課程で、その関連性と資料価値が再考されることになった。そして、藤田家のご理解のもとに本館に寄贈されることになったのである。
藤田家は当主誠一氏で15代目になる由緒ある家柄である。市内原田の永明寺が菩提寺である。誠一氏によれば過去帳をみると、藤田家の祖先に3人ほど僧侶らしき名前の人物がいるほど知識人的な家系であるが、寺子屋を開いていたという記録は伝わっていないという。明治時代になり、農業を大規模に営んでいたが、誠一氏の祖父は当時の今泉村役場に頻繁に出入りし、土地測量や人口調査を担当していたという。教員をしていた人物がみられないのに、このような一連の教育書籍が存在していたのは、祖父の代の行政との結びつきが背景にあったことが考えられる。(注1)
寄贈された資料のうち、『小學讀本』と『小學入門乙号』は、明治初年に文部省を中心に作成された学習掛図の解説書あるいは教師向けテキスト本としての性格をもつものである。明治時代初期は、大量印刷技術や用紙の確保に問題があったことや書籍が高価なことなどから、最初に学習掛図が主教材として活用され、後に洋紙による製紙・印刷技術が確立され、価格面でも見通しがたつようになると、教科書が中心教材になり、学習掛図は序々に副教材的な存在になっていくのである。(注2)
まず、『小学讀本』は、伊呂波と五十音韻の頭文字順によって成立する語やその意味などを絵入りで述べたものである。例えば、伊呂波については、家、絽、薔薇にはじまる六十七語。五十音韻については、第一綾、第二稲にはじまる四十七語である。
また、『小學入門乙号』は、それより先に文部省によって作成され、全国各地域で重刻された学習掛図を冊子化したものである。内容的には、次のようなもので構成されている。
○いろは図 五十音 濁音 次清音 ○色図 ○数字 算用数字の図 羅馬数字の図 加算九九の図 乗算九九の図 ○単語図 第一~第八 ○連語図 第一~第十 ○線及度図 環ノ度 面及体図
ところで、この『小學入門乙号』の奥付によると、発行年・発行者・弘通などが記載されており、静岡県内の沼津、大宮、静岡、江尻、藤枝、島田などに混じって「吉原相模屋」[一部黒塗り不明]という表記がある、これらの地域名の記載からは、県内各地にこの書籍の流通(需用)があったということがうかがえる。(注3) 「吉原相模屋」については、『吉原市史中巻』中の矢部新作氏作成「明治末期の吉原町の図と思い出」(明治38年~45年前後)によれば、東海道沿いの「扇屋本陣」近くに「相模屋新聞屋」(現在吉原本町2丁目)という記載がある。ここが、先の書籍にかかわりのある「相模屋」であった可能性もある。
次に、『新撰小學讀本巻之一』は、第一章から第三十七章まで構成されている。第二章においては、男女とも六・七才になったら、皆小学校に入学して知識をひろめることを第一とすべしといった、男女共学・就学義務のことが述べられている。
また、第十二章では、「又書物は能く注意して取り扱うべし 墨を付け又は破ること等は甚だ悪しき所業なり」とあり、いつの時代も落書きが教える側にとっての悩みの種であったことが興味深い。(注4)
さらに、『小学地誌略万国之部下』は、世界各国の地理・首府・産業などを紹介したものであるが、内容的には難解な文章で構成されている。この点について、富士市文化財審議員の若林淳之氏は、当時の近代化・国際化への期待を背景に教科書の出版によって生計を立てようとしていた士族や平民を中心とした編者が、知識伝達を中心に編集したが、必ずしも児童生徒の発達段階を理解しているとは限らなかったことを指摘している。(注5)
『児童心得』については、生徒指導的な十七条の内容になっている。吉原書林の発行でこの書籍の翻刻人は、静岡県平民の吉原宿本町一六五番地に住む近藤昌平となっている。若林淳之氏によれば、この近藤氏が、明治時代に山梨県南部村で私塾蒙軒塾を営み、後にその一族が、富士に移り住んだといわれる旧名主近藤喜則にかかわりがあった可能性があると推測する。しかしながら、近藤家の家系図からは、それをうらづけるような資料は確認できず、吉原書林についてもくわしいことはあきらかでない。今後の調査課題である。
▲『児童心得』
祖母が今泉小学校に長年勤めたことがあるという市内在住の方からは、大正時代以前のものと考えられる『理科掛図』と『音楽掛図』が寄贈された。
『理科掛図』は、アサガオをはじめとした植物や、ウマ・ウシといった動物、鉱石など14枚を多色刷りしたものを布に1枚ずつ貼り、木の枠ではさみ、鋲止めしたものをひもでつるす形態になっている。多色刷りの保存状態は、比較的良好を保っている。
理科という科目が、1886(明治19)年に成立する以前は、博物(動物・植物・金石)、物理、化学、生理という自然科学の領域にそくして分化されていた。(注6) この寄贈資料の場合は、動物・植物・金石が一綴りにまとめられていることから、もともと博物の掛図であった可能性も一部に残る。
また、教育掛図についての豊富な資料を所蔵している東京書籍附設東書文庫の橋口緑司書によれば、この掛図の内容が明治30年代に出された教科書の挿し絵に似ていることから、国定期文部省発行のものではなく、民間で出された理科の掛図の可能性もあるという。
さらに、一般的に掛図の文部省版は最終項にそれを示す表記があり、民間版は表紙が残っておらず、どちらかを特定することはできなかった。今後、掛図中にみられる絵の説明文の文体の分析も含めて、引き続き作成年代の調査に取り組みたい。
次に、『音楽掛図』は、明治時代以降の西洋音楽の導入・普及を背景にして、楽典や音階と鍵盤の対応表など、第三~六図の4枚である。『理科掛図』と同様、三方のふちが布ばりになっており、上面に木枠で綴ってあったと思われる穴があいている。こちらの掛図も第二以前と第七以降を欠いており、文部省版か民間版か特定できない状況である。
ところで、現在の学校現場では、視聴覚機器の導入・改良が進み、VTRやCDがよく使用されるが、その一方で、取り扱いがシンプルで静止画的な掛図やスライドのよさも見のがせないものがある。現在使用されている掛図の多くは、先にふれた寄贈掛図のようなめくり型ではなく、1枚ずつのパネル型のものである。学習に必要なパネルを選び、黒板の上部のクリップにはさんだり、マグネットで固定したりして使用される。また、掛図の中には専用のマジックで書き込みが何回もできるものもある。掛図は、黒板が可動式になったことや、カラー印刷やコーティング技術の改良、マグネット対応機能などを背景に、今回の寄贈掛図と比較すると、そのスタイルを変えようとしているのである。本館では、平成12年度に全国的にみても貴重な「明治初年小学校掛図」の寄贈を受けているが、掛図変遷をふりかえる意味において、今回寄贈の掛図は、資料的な価値があるといえよう。
富士地区の小中学校に長年学用品や副教材を提供している富士地区学校生活協同組合からは、ランドセル、ナップサック、ノート、学帽、校章バッジなどの学用品や理科・図工副教材の寄贈があった。まず、授業におなじみのチョークについてであるが、ひと昔前には、先がやや細まった形のものが使用されていた。今回寄贈のものは、円柱形で手につかない皮膜つきの長短2タイプで、長い方は石膏製、短い方は炭酸カルシウム製である。チョークは改良が進み、現在一般的に使用されているものは、硫酸カルシウム製で先端は書きやすいように、平らでやわらかめ。手に持つ方は、ポリエステル樹脂で皮膜加工され、先端部は丸く、硬くできている。最近は、蛍光色のチョークも登場している。
また、学帽と校章は従来ワンセットであったが、教育の個への対応の重視を背景に、男子生徒の髪型の変遷にともなって、それらの取り扱いは減少したという。
さらに、理科・図工副教材もいくつか寄贈された。例えば、3年生を対象にした「電気と物」・「光と物」、4年生を対象にした「電気と光の働き」などである。これらの教材セットは、事前の準備が効率的にできることや、理科工作的な楽しさがあることなどのメリットがある。その一方で、画一的な学習になりがちだったり、教材セットの操作性にのみ関心がいったりするデメリットがある。例えば、水てっぽうを遠くにとばす実験において、子どもたちがそれぞれに水てっぽうを作成し、試行錯誤しながら改良していけば、より楽しく実感的に学習できる。また、教師が児童の実態と学習のながれに合った自作教材を提示すれば、興味・関心を高めることにもなるだろう。(注7) 現在では、教材セットも教育の個性化や技術革新のながれを背景に、組立方や部品に選択肢をもたせたり、カラー化・軽量化されたりする工夫がみられるが、自作教材のよさもたいせつにしながら、両者の併用を考えていきたいものである。
この他にも、富士地区学校生活協同組合からは、児童・生徒や教師が使用した教材がいくつか寄贈されたが、別の機会に紹介することとしたい。
これまで述べてきたものの他にも貴重な教育関連資料が寄せられた。市内の吉永第一小学校からは、木製二人掛け用机、授業計画案版木、アルコールランプが寄贈された。このうち木製二人掛け用机は、昭和30年代頃のものである。木製の足部分は、高さを調整するためにいわゆる下駄をはかせた状態になっている。机の表面にはいくつかの落書きがみられる。この二人掛け用の机を使用した世代なら、机の真ん中に線をひいた覚えのある方も少なくないであろう。もともと、二人掛け・三人掛け用の机・椅子は、明治時代に教科書が高価で貴重であったことを背景に、教科書を二、三人で一緒に利用することを考慮して使用されたといわれている。(注8) その後、昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて、教育界での個への対応への動きに即して一人掛け用机・椅子に移行していくのである。そして、その机・椅子の素材も技術革新や経済成長をもとにした加工・合成製品への社会の注目などを背景に、木製から金属パイプ製に。さらに、可動性、操作性、耐久性、軽量化などへの配慮から、2本足型の金属製、強化プラスチック製などに変遷していくのである。(注9) この他に、授業計画案版木は、現在のような印刷機のない時代、教材や学習内容などを書き込む枠を木版で大量印刷するために作成されたものと考えられる。また、アルコールランプはよく見られるガラス製の容器でなく、金属性のもので、昭和時代以前のものと考えられる。(注10)
さらに、富士第一小学校からは、明治時代のものとされる『加島小学校巡回文庫』が寄贈された。富士第一小学校の前身加島小学校は、深井譲初代校長のもとに旧富士地区教育の中心をなしてきた。この加島小学校で使用されたことだけあって、取っ手のついた木箱に収納された文庫27冊の内容は、『創作童話』、『植物図』、『少年少女世界地誌』、『電話の話』をはじめ、皇室、偉人、戦史に関連したものなど多方面にわたっている。(注11)
この他にも、富士市内の明治時代の教育の先覚者たちが残したものとして、『深井文庫』をはじめ、穆清舎(現在吉永第一小学校)の『生駒文庫』などがある。また、『関家文書』や『伊達家文書』など古くから伝えられている資料の中にも貴重な教育関連資料が含まれている。
今後、これらの教育関連資料の体系的な調査が重要であると思われる。
教育課程の変遷や技術革新とともに、教科書・教材・教具なども変化をみせていく。
ことに、平成14年度の教育界は、完全週5日制・総合的な学習の本格的実施といった転換期をむかえようとしている。授業では、コンピュータを取り入れた学習が行われる中で、CD-ROMにおさめられた副教材が登場する一方、昔からおなじみの掛図もその機能を新しくしながら使用されている。教材・教具も多種・多様化してきているのである。
学校によっては、余裕教室を活用して古い教材・教具などを保管して、学習に役立てているところもあるが、施設的な制約や継続的な担当者の人員確保などの課題がある。
本館では、小学校3年生が昔のくらしの学習の際、教育関連の展示コーナーを見学することが多い。そこに展示された掛図パネル・教科書・石盤・石筆などを見学し、現在の学校生活の様子と比較するのである。これからも、目まぐるしく移り変わる教科書・教材・教具類の調査研究や資料収集・整理に取り組み、学習者のニーズに応えた展示替えや資料貸し出しに反映することが重要であると考える。(注12)
だが、本館の収蔵スペースや限られた人員の中での仕事配分調整など、改善すべき課題もある。現在、学校と博物館の連携・融合の重要性がいわれている。博物館が教育関連資料の調整・研究、展示の充実に取り組む一方、学校側も博物館との事前連絡を密にし、相互の理解と調整につとめることが求められるのではないだろうか。そのうえで、博物館職員が教育資料を活用した授業に協力したり、余裕教室を利用した教室博物館づくりに、ともに参加支援したりすることもひとつの方法である。
本文注 1、先述した杉山静男氏寄贈の『明治初年小学校掛図』の場合も、『平成12年度富士 市立博物館館報』の「明治初年小学校掛図‐ 一色杉山家寄贈コレクション-」の中で 報告したように、行政とのかかわりが深かったことがうかがえる。 2、この点については、佐藤秀夫・中村紀久二編『文部省掛図総覧』東京書籍や、紙の 博物館学芸部「紙からみた教科書」『百万塔』第102号にその歴史的な経過がくわ しく述べられている。 3、東京に地理的に近かった静岡県は、文部省の方針・指示が比較的早く伝わり、実施 される傾向があったようである。これらの教育書の広まりも早かったことが推測され る。 4、富士市文化財審議委員の若林淳之氏によれば、この書籍にみられる落書きにも着目 する必要があるという。所有者と思われる「藤田松二郎」をはじめ、「今泉村進啓館」 には、分教場の可能性もあったと推測している。 5、平成14年3月の富士市文化財審議会においての若林淳之氏の「藤田誠一氏寄贈に なる『明治初期教育関係書籍(教科書)』について」の報告による。 6、この点に関しては、文部省『学制百年史』、佐藤秀夫著『学校ことはじめ事典』小 学館などにくわしく述べられている。 7、この点については、長年小学校に勤務された元小学校長渡井正二氏(現富士宮市ふ るさと展示室)にご指摘いただいた。 8、佐藤秀夫著『学校ことはじめ事典』小学館に紹介されている。ちなみに、愛媛県宇 和町の明治時代以降の豊富な教育資料をもつ開明学校では、昔ながらの木造教室、木 製机・椅子で、掛図を使用した模擬授業が体験できる。 9、平成12年度に本館で開催した「20世紀写真のなかの富士-学び舎のあの日-」 展に際して、市内の教育施設の協力を得て、木製の机・椅子の保存状態を調査したが、 二~三の小学校で木製机や木製ベンチなどが残されているに過ぎなかった。 10、最近では、芯の部分が円形の金属性のアルコールランプも使用されている。 11、この『加島小学校巡回文庫』は、本館の第一展示室で常設展示されている。 12、本館の第一展示室教育コーナーは、平成14年3月に、本稿でもふれた平成12年 度寄贈の「明治初年小学校掛図」、平成13年度寄贈『新撰小學讀本』の写真パネル などを中心に一部展示替えを実施した。