今回の調査は、当館第三九回企画展の開催に伴って行われた。東海道を日本橋から数えて一四番目の宿場・吉原宿には、幕末、問屋として采配を振るい晩年には画家として名声を博した鈴木香峰という人物がいた。平成一三年(二〇〇一)は、東海道宿駅制定四〇〇周年という記念の年にあたり、吉原宿の歴史の中でも突出した実力者とみられる香峰をとりあげ、幕末の吉原宿の様相を探る趣旨である。
調査の対象となった主な史(資)料は、富士市立中央図書館所蔵の脇本陣鈴木家文書(本家伝来)、個人蔵の脇本陣鈴木家文書(分家伝来)、平成九年度に鈴木本家子孫よりいただいた当館蔵の脇本陣鈴木家関係資料である。富士市立中央図書館蔵文書は、主に江戸時代の支配関係文書や貢祖関係文書、村落関係文書、交通関係文書などがある(注一)。一方香峰の養嗣子・又二郎の三男・鈴木四郎氏(故人)宅に伝わった分家伝来の文書は、明治期以降のものがほとんどでその内容は書画、和歌、漢詩など文化関係の資料が多く、香峰や又二郎らがやりとりした膨大な量の書簡が遺されている(注二)。また鈴木本家子孫よりいただいた当館蔵の脇本陣鈴木家資料は、香峰や彼と交流があったとみられる書家、画家たちの書画が中心となっている。
これらの資料をもとに鈴木香峰の功績の一端を紹介していく。尚、以後富士市立中央図書館蔵の文書は「本家文書」、鈴木四郎氏伝来の文書は「分家文書」と記載し、区別する。
鈴木香峰は、名を惟忠、通称を伊兵衛といい、後に耕蔵と改めている。香峰とは雅号で四二歳頃までは高峰という雅号も使用していたようである。香峰は文化五年(一八〇八)、幕臣原権次郎の三男として江戸四谷の西念寺横町(現在の新宿区若葉)に生まれ、二二歳の時に吉原宿脇本陣扇屋の婿養子に入っている。「原家由緒書」(分家文書)によると、香峰の父・原権次郎保則は、原家一七代で御勘定吟味方改役並役などを務めた幕府の役人で、長兄の鉄蔵保胤もまた御勘定役などを務めた。
香峰は文政一二年(一八二九)、二二歳の時に吉原宿脇本陣扇屋の婿養子となり、後には当主として才覚を発揮したとみられる。香峰がやってきた頃の吉原宿には、本陣の神尾家、長谷川家、脇本陣の四ツ目屋杉山家、野口家、扇屋鈴木家があった。扇屋鈴木家の祖先は江戸時代に至る前、吉原湊(現在の田子の浦港)の実力者として渡船役を務めていたとも考えられている(注三)。
鈴木家に養子に入った香峰は、後に宿の問屋として采配を振るう。香峰が問屋となった天保後期は、度重なる倹約令や、天保の改革による奢侈禁止令などにより宿駅・助郷の人馬采配の取り決めや、旅籠屋での宿泊の改め、風俗矯正による飯盛女の取り締まり強化などが行われ、宿の財政も非常に厳しい時期だった。在職中には安政大地震や、一四代将軍家茂、一五代将軍慶喜らの上洛も重なり未曾有の大通行がくり返され、宿駅や助郷の困窮は深まる一方だったようで、香峰の苦悩の程が想像される。
明治一八年(一八八五)七八歳で没するまで、宿の問屋として人馬継立などの仕事に従事し、宿組合取締役を務め、農兵隊の統率・指導にあたるなど宿の発展のために尽力する一方で、和歌をたしなみ書画に長けた趣味人でもあった。特に明治期には多くの山水画を制作し、文人たちとの交流も盛んで、晩年には静岡県南画界の巨星と称された。
(正面)寒林院釈瓊樹香峰居士 (左側面)居士諱惟忠称伊兵衛後改耕蔵号香峰文化五年 戊辰正月八日生于江戸四谷西念寺横町幕士原 権次郎之第三子也年二十二(欠)□嗣鈴木氏居吉原 (背 面)駅為駅長三十余年宿弊随除風俗復淳官嘉其功 許称姓氏兼摂関西十三駅之長慶応三年移病辞 職曰以丹青娯戊辰維新之後蒙宮内省特命描山 水水墨設色二図称旨 (右側面)寵賜金二十円蓋異数云明治十八年五月二十八 日病卒年七十八法謚曰寒林有二女長承家次適 中村某 向山栄選並書 広羣寉刻
天保一四年(一八四三)の吉原宿には、問屋二名、年寄二名、年寄見習一名、年寄格一名、加宿(本宿の業務を助ける村)伝法村の問屋一名、年寄一名、本宿・加宿兼務の帳付四名、割増役二名、問屋代四名、馬指四名、馬呼四名、人足配三名、人足配下役四名といった役人がいたようである。
香峰が問屋となった最初の記録は天保一四年で、問屋伊兵衛の署名に「惟忠」という黒印が捺された文書がある(本家文書)。前年の天保一三年にも、黒印はないが問屋は一四年と同様伊兵衛と六左衛門とされている記録がある。明確な時期は不明だが、香峰が問屋として吉原宿で采配を振るったのは、天保一四年前後からとみられる。
天保一四年(一八四三)の「東海道宿村大概帳」(各宿の実態調査)によると、吉原宿の問屋場は月のはじめの二〇日間を本宿つまり吉原宿の問屋場が業務を行い、あとの一〇日間は加宿伝法村(本宿の業務を助ける村)の問屋場が業務を行っていた。文久元年(一八六一)一二月の「人馬御継立宿入用遣払書上帳」(本家文書)は吉原宿のものなので、一二月一日から二〇日までの伝馬に要した人馬が記されている。この年の問屋は、六左衛門(本陣神尾家)と伊兵衛(香峰)が務めている。
天保一〇年(一八三九)九月の「宿賄諸入用勘定帳」(本家文書)には、香峰が問屋役に就任する直前の宿財政が記されている。吉原宿は御用荷物の運送や問屋給米などの純粋な収入だけでは賄いきれず、六郷川(多摩川下流)の渡船収益からの配当金を受けている。しかしこれでも全体の収支のバランスがとれないので、伝馬・歩行役から帳尻あわせの徴収を行っている。また、天保一三年(一八四二)の「支配御役所拝借並借入金返納残仕訳帳」(本家文書)は、過去の韮山代官などからの拝借金とその返納について書き上げられている。天保九、六、五、八年の拝借金の合計額が金八六二〇両で、利子が金二六両となっており、その内返済できているのはわずか金三八三両一分で残は金八二六二両一分にのぼっている。
このように、香峰が問屋役に就任した時期は、財政困難な状況にあったことが推察される。こういった状況の中で、香峰が問屋役としてどのような采配をふるったのか、のこされた資料から見ていきたい。
香峰が問屋役となって一〇年余りが経過した嘉永七年(一八五四)一一月四日、東海道沖を震源とするマグニチュード八.四といわれる大地震が発生した。これにより東海道筋のみならず、広範囲に渡って倒壊、火災などの被害が相次ぎ多数の死者が出た。ところがその復旧もままならない翌安政二年、今度は九州地方を中心とする南海大地震が起き、安政三年には江戸を中心とする江戸大地震に見舞われ、大混乱に陥った。
東海道は震災被害のために安政元年(一八五四)、宿駅人馬賃銭を五割増とすることが決められ、由比宿と興津宿の間の薩■峠(さったとうげ)には新道が拓かれた。香峰も問屋役として宿駅業務に支障を来さないために救済金を韮山代官に願い上げた。地震直後の安政元年一二月に、吉原宿の本陣・脇本陣・伝馬役の人足らから出た拝借金の願いに応えて、韮山代官・江川太郎左衛門は貸付を行った。江戸時代の韮山代官関係史料などを収蔵する江川文庫(韮山町)には、安政元年(一八五四)一二月の「奉請取御金之事」という文書が伝来する。これは、その時に吉原宿の問屋六左衛門(本陣神尾家)と伊兵衛(香峰)から出された請け取り確認の文書であり、大動脈・東海道の宿駅とあって早急に貸付が行われたことが窺える。また、表一中の吉原宿備考欄にみられる“土橋潰一”は、和田川土橋とみられ、宿の東はずれ(現在の平家越橋のあたり)に位置していた。安政二年(一八五五)五月の「東海道和田川土橋御修復御普請仕訳帳」(本家文書)には、橋の修復に必要な木材や人足、それにかかる費用が書き上げられ、合計すると米六斗三升三合七勺、金一九両一分にのぼっており、その復旧に追われている。困窮の中でのこの地震は各宿駅に多大なる負担を与えたことが想像される。
幕末の将軍上洛は、一四代家茂による家光以来二三〇年振りの文久三年(一八六三)二月、同年一二月、慶応元年(一八六五)の長州征伐、一五代慶喜による慶応二年(一八六六)の将軍宣下がある。上洛に際しては上洛法令が発せられ、供奉条目や人馬賃銭之定などが出されて、参加者の心得を示し、庶民の旅はなるべく慎むように規制された。将軍上洛は、御茶壺道中や日光社参と共に幕府の権力を誇示する目的が大きかったようで、安政の開国などで幕府の絶対的権勢が揺らいだ幕末には、頻繁に行われた。このような未曾有の大通行が立て続けに続いたことは、街道の宿駅にとって甚大な影響を与えたことはいうまでもない。
文久三年(一八六三)一二月の「内密書上」(本家文書)には、家茂二回目の上洛にあたって、これに伴う負担を軽減してほしいという内容が記されている。品川宿より箱根宿まで組合一〇ヵ宿取締役で品川宿の山本伴蔵と三島宿より府中宿まで組合九ヵ宿取締役(注四)の吉原宿問屋伊兵衛(香峰)の名が記されている。
慶応元年(一八六五)五月五日の「増加助郷一件申合議定」(本家文書)には、長州征伐による一四代将軍家茂の上洛に際し、宿組合が申し合わせた宿方と助郷の人馬の配分が記されている。宿方二分、助郷八分などとされているが、宿から遠い村も多いので助郷の負担は相当重いものであったと考えられている。香峰は三島より府中まで組合宿々取締役吉原宿問屋鈴木耕蔵として名を連ねている。
江戸時代後期、諸外国が開国を求めて日本沿岸に渡来するようになると、老中・松平定信による海防強化を目的とした伊豆沿岸の巡視が行われ、韮山代官・江川太郎左衛門英龍から伊豆沿岸防備の意見書が幕府に提出されるなど、海防問題が大きく取り上げられるようになった。嘉永六年(一八五三)一〇月の「内願書上」(本家文書)は、近年外国船の渡来により、沿岸防備の海防人馬の通行が急増しているので、救済をお願いしたいという内容の文書で、問屋伊兵衛(香峰)、同六左衛門(本陣神尾家)から出されている。海防のための農兵設置については、幕府の寄合筒井政憲、江川英龍の建白などが出されたが何れも採用には至らなかった。
英龍没後の文久元年(一八六一)英龍の子・英敏が、従来の海防よりも村方の治安維持に力点を置いて関東八州と駿河・遠江・三河にわたる農兵設置の建議を提出すると、文久三年一〇月になってようやく英敏の支配地に限り農兵設置が認められ、翌元治元年(一八六四)一一月に農兵の取り立てが始まる。この時の農兵の編成は、多くは豪農層の子弟から身体屈強な者を選び、二五人を一小隊とし小隊には頭取二、什兵組頭二、差引役一の計五人の役人をおき、一〇ヵ村以上でつくられている組合村ごとにおかれたとされている。
香峰は豆駿州一円(現在の静岡県中部・東部・伊豆地方)の農兵隊の世話係として他の組合宿村との打ち合わせや農兵の指導などを任された。吉原宿役人にあてられた丑年四月の「農兵世話方掛任命」(本家文書)では、問屋耕蔵(香峰)と隆蔵(本陣神尾家)が嘉永度に農兵に関する建議を先々代(江川太郎左衛門英龍)に提出しており、心得もあるので農兵の指導にあたるように、また年寄縫之助については、世話係を行うよう記されている。
慶応元年(一八六五)将軍家茂の上洛の際、韮山代官支配所農兵六大隊の調練が富士川河原にて行われた。香峰が世話係を務めた農兵隊も参加しており、その壮大な様子を家茂も見学したことが伝えられている。
香峰は問屋役として宿の運営に尽力する一方で、和歌・書画などにも親しむ趣味人だった。なかでも香峰の次兄ではないかとみられている江戸の国学者・原久胤(生没年不詳)の影響からか、和歌はよくたしなんでいる。
当時の静岡県下では、賀茂真淵を生み、内山真龍、高林方朗、栗田土満、石川依平、八木美穂など著名な国学者を挙げ始めると枚挙に暇がないほどに隆盛をみせた遠州の国学、栗田土満により移植され、駿府の商人層や駿河の神主に広まりをみせた駿州国学、本居宣長門下で伊豆国学の祖と称される竹村茂雄を中心として現在の静岡県東部一帯に多くの門人を輩出した伊豆の国学が主に発展をみせた。しかし吉原宿周辺では石川依平や竹村茂雄の門下が数名みられるだけで系統的な発展はほとんどみられない。脇本陣鈴木家関係資料には、本家文書、分家文書、また当館蔵の資料を含め、多数の短冊や和歌綴がのこされ、香峰自作の歌も少なくない。しかし、香峰自身も国学者というよりは、和歌をたしなむ程度だったであろうと推察される。
歌集「いつきかもと家集」(伊達正彦氏蔵)が伝来する神谷村(現富士市)の伊達家は江戸時代代々眼医を営んでおり、六代目本益敏則が原久胤の一番弟子で香峰とも交流があり、香峰の義妹(脇本陣扇屋の娘)は七代目本益に嫁いでいる。“いつきかもと”とは、原久胤のことで、この歌集は『国学者伝記集成』にもみられる『五十槻掻葉集三巻』のうちの一冊である。
伊達家は歌舞伎役者の七代目市川団十郎とも交流があり、天保の改革の奢侈禁止令により江戸所払いとなった団十郎が逗留し、ゆかりの品も伝来する。香峰夫妻はこの伊達家夫妻らと共に江戸へ観劇に出かけることもあったという。
江戸四谷に生まれた香峰は、同じく江戸四谷の大番町(現在の新宿区大京町)に住む旗本・大岡雲峰(一七六四~一八四八)に師事した。雲峰は篆刻家としても名高い高芙蓉(一七二二~一七八四)の門人とされてきたが、斎田記念館・世田谷区立郷土資料館による『江戸の博物図譜』(一九九六)によって山水人物に長じた鈴木芙蓉(一七四九~一八一六)の門人ということがほぼ証明されている。香峰は、雲峰亡き後は次男の雪峰に学び、後に遠州見附(現在の磐田市)の画人で渡辺崋山の門人・福田半香(一八〇四~一八六四)にも画法について助言を得ていたという。
香峰が得意としたのは南画や文人画とも呼ばれるいわゆる山水画で、中国の故事を主題にしたとみられる作品を多くのこしている。南画とは中国の南宗画を基にして日本で生まれた概念で、中国の官僚・士大夫階級の教養人ら絵を描くことを職業としない立場の人たちが描いた絵を指すといわれている。この南宗画が高い教養に裏打ちされた文人の画であることから文人画とも呼ばれている。日本に文人画が流行し始めるのは江戸時代中頃で、江戸時代後期への移行期に南画を大成したとされる池大雅(一七二三~一七七六)、与謝蕪村(一七一六~一七八四)などの登場後、南画は日本各地で大流行し、趣味として画を描く人たちを多く生み出したとされている。
問屋業務に忙殺されていたためか、作画期は主に明治期に入ってからであるが、富士市周辺の旧家には襖絵や掛軸などに仕立てられた香峰の山水図が多く伝来している。強烈な個性はないが、緻密で繊細な筆運びからは、香峰の実直で勤勉な性格が想像される。
文人とは書画・漢詩・和歌などの風雅に秀でた知識人のことを指し、生活の余剰が生まれ、学問の普及が急速に進んだ江戸時代後期には、その文人層が広く形成され始めるようになったといわれている。脇本陣鈴木家旧蔵資料(当館蔵)には、江戸の国学者・千種有功や、巻菱湖・市河米庵といった著名な書家、川上冬崖などの画家、現在の静岡県下の画家など、様々な文人たちとの交流をうかがわせる書画が多くのこされている。香峰は問屋役として様々な情報を処理する一方で、江戸文化の吉原宿やその近郷への流入といった面でも少なからず影響を与えたものと想像される。
文人たちの交流の場となったものの一つに、書画会があげられる。書画会とは、画家たちが席上で書画を揮毫するという催しで、幕末の江戸で流行した。江戸での書画会の始めは寛政四年(一七九二)正月、柳橋の料亭・万屋で行われたもので、谷文晁ら七名の画家が集まって書画を揮毫したとされている。初期の同好会的な集まりと反して、次第に売名・利潤目的の開催に堕していったともいわれている。
香峰が関係した一部の書画会は、江戸末期の案内刷物「書画展観会」(当館蔵・脇本陣鈴木家旧蔵資料)、同じく「新書画展観会」(分家文書)、明治一一年(一八七八)の「書画展観囲碁会」(分家文書)によって知られる。「書画展観会」は、江戸両国で幕末に開かれたとみられ、香峰も会幹として名を連ねている。「新書画展観会」は、遠州見附(現在の静岡県磐田市)の蓮光寺で幕末に開かれたとみられる。京、大坂、伊勢など広域からの参加がみられる。
「書画展観囲碁会」は、香峰の七一歳を祝う書画会で、名実共に名高い文人たちが数多く集まっており、当時の香峰の高名振りがうかがえる。この書画会は明治一一年一〇月五日、六日の二日間、香峰の古稀(七〇歳)の祝いに、三島宿の本陣だった世古邸で開かれた。会幹を孫(注五)の又二郎と甥の渡邊佐一郎(東比奈村〈現富士市〉の名主・渡邊家一〇代当主。甥とあるが香峰との親戚関係は不明。)が務め、招待客には沼津兵学校の創始者・江原素六、沼津宿(現沼津市)の画家・磯部菊渓、原宿(現沼津市)の素封家・植松氏、平垣村(現富士市)の豪農・松永氏らが招かれ、幹事には西尾蘭渓、小林■塘、小出東嶂といった静岡丹青社(静岡県内の美術家協会)の面々や、六代目敏則の代から交流が深く、県会議員や衆議院議員として政治家としても活躍した神谷村(現富士市)の伊達文三(一八四四~一九〇一)らが名を連ねている。
この書画会では、重須村(現沼津市)の文人・土屋清海、沼津宿の画家・磯部菊渓らとの合作が制作された。清海らの書と菊渓・香峰の画によるもので、外題には「世古開莚席上合作」とあり、現在沼津市内浦の土屋家が所蔵されている。
明治政府は産業革命を経験した諸外国の産業レベルに追いつくため、勧業政策により国内の様々な産業を奨励した。また西欧諸国が産業振興を目的に博覧会を開催したのと同様、日本でもこの博覧会制度そのものを移植した。明治政府が主催した最初の博覧会は、明治五年(一八七二)東京で開催された湯島聖堂博覧会で、同六年(一八七三)には公式にウィーン万国博覧会に参加している(注六)。また内国勧業博覧会は、明治一〇年(一八七七)東京上野公園で第一回が開催されている。明治政府の殖産興業政策では、西欧におけるジャポニズムの需要に応える目的もあって美術工芸品も奨励され、博覧会にも出品された。
香峰は、明治六年(一八七三)のウィーン万国博覧会に青緑山水図と富士図を出品し、一円二五銭ずつ合計二円五〇銭の画料を得ている。これら二図を含め、日本から出品された絵画はそれぞれ横物で描かれ、ウィーンでの出品にあわせて全て額装に仕立てられたという。
明治一〇年(一八七七)の第一回内国勧業博覧会では、龍紋賞、鳳紋賞、花紋賞、褒状が設定されていた。香峰は褒状を受賞したようだが、この博覧会では出品者全体の三分の一近くの人が受賞したという。
明治六年(一八七三)、吉原宿を通らない下街道(注七)に便道を通す計画が出た。これに伴うものとみられるが、明治初期、「宿内産業之趣法ニ付奉嘆願候(下書)」(当館蔵・脇本陣鈴木家旧蔵資料)という嘆願書が出されている。これによると、吉原宿内の疲弊が心配されるので、明治政府が推奨する勧業政策に乗っ取って紙漉・製茶・養蚕といった産業に取り組みたいため、その着手金を借りたいという内容が記されている。香峰が記したものかどうかは不明だが、宿の行く末を案じた嘆願書の下書が脇本陣鈴木家旧蔵資料にのこされていることは、少なからず香峰の姿勢をうかがわせるといえよう。
今回の企画展では、今まで香峰という人物について明らかにされてきた事柄を、関連する資(史)料によって紹介した。よって、『吉原市史』編纂や『東海道吉原宿』執筆を手がけた鈴木富男氏や『富士市史』編纂、『静岡県史』編纂に携わった若林淳之氏ら先学の研究に拠るところが非常に大きい。これら先学の研究をふまえて香峰について総括する展示を心掛けたが、未だ不十分なところも多く研究の余地をのこしている。
当館では近世研究の蓄積が十分とはいえず、今回の調査を通して特に文化面については、重要かつ貴重な資料の調査が行われていないことを改めて認識した。今後は基礎的な情報の収集・蓄積のみならず、市内素封家の再調査等を通して資料・情報の充実をはかっていきたい。
本文注 一、目録は富士市史編纂委員会により『富士市史資料目録第一輯』に掲載されている。 二、目録は富士市史編纂委員会により『富士市史資料目録第六輯』に掲載されている。 三、吉原湊で実権を握り北条氏、今川氏ら戦国大名の保護を受けた道者問屋・矢部家宛 の北条氏朱印状(矢部家文書)に、鈴木弾右衛門、鈴木善右衛門などの名が矢部家当 主の名と共に記されており、扇屋はこれら鈴木氏の子孫にあたるのではないかとも考 えられている。矢部家は江戸時代には銭屋という屋号で脇本陣を経営していたが、文 政年間に廃業している。 四、東海道の宿組合は、天明七年(一七八七)に編成、寛政年間に中絶、その後幕府領 の宿場には文政改革の一環として再び宿組合を作っていた。その後嘉永四年(一八五 一)八月、道中奉行は改めて東海道の品川~箱根宿、三嶋~府中宿、丸子~舞坂宿、 新居~宮(熱田)宿、桑名~草津宿間でそれぞれ宿組合を編成し、組合ごとに取締役 をおかせた。これにより宿から助郷村増加の願いや助郷村々からの助郷免除の願いに ついては、宿組合とその取締役を通じて出願することとなった。香峰の名が取締役と して見えるのは、今回の調査では文久三年(一八六三)が初出、慶応二年(一八六六) まで確認された。 五、この書画会の刷り物では、又二郎(一八五一~一九一六)は香峰の孫とされている が、分家文書にある「出生届(すゞ子)」(明治四五年〈一九一二〉)によると、 又二郎は香峰の養嗣子と記されている。 六、慶応三年(一八六七)のパリ万博には江戸幕府と薩摩藩・佐賀藩が参加している。 七、鎌倉時代初期、吉原湊(現在の田子の浦港)付近に吉原宿の前身といえる見付宿が 構えられ、渡船や伝馬を管理していた。この頃東海道の道筋は、吉原湊を船で渡して 柳島、川成島、五貫島(いずれも現富士市)などを通って富士川を再び船で渡る下街 道(浜街道)というルートをとっていた。しかし後に吉原湊と富士川下流での渡船が 廃止され、東海道の道筋は吉原湊の手前から北上することとなった。江戸時代に入っ て東海道の宿駅が整備された後は、災害に伴う吉原宿の移転により数度ルートを変え、 最終的には海岸通を避けるように大きく迂回するルートが定着した。これは伝馬制度 を滞り無く執り行うためやむを得ない策ではあったが、下街道に比しておよそ四キロ も遠回りしなければならず、旅人にとっては不便を極めたと想像される。 主要参考文献 静岡県編『静岡県史 通史編3 近世一』一九九六年 静岡県 静岡県編『静岡県史 通史編4 近世二』一九九七年 静岡県 静岡県編『静岡県史 通史編5 近現代一』一九九六年 静岡県 静岡県編『静岡県史 資料編13 近世五』一九九〇年 静岡県 静岡県編『静岡県史 資料編14 近世六』一九八九年 静岡県 富士市史編纂委員会編『吉原市史 上巻』一九七二年 富士市 富士市史編纂委員会編『吉原市史 中巻』一九七二年 富士市 鈴木富男『東海道吉原宿』一九九五年 駿河郷土史研究会 黒板勝美・国史大系編集会編『国史大系第五一巻 続徳川実記 第四編』一九六七年 吉川弘文館 仲田正之『韮山代官江川氏の研究』一九九八年 吉川弘文館 沼津市明治史料館編『沼津の国学』一九八八年 沼津市明治史料館 沼津市明治史料館編『近世・近代ぬまづの画人たち』 沼津市明治史料館 上田萬年監修『国学者伝記集成 一巻』一九七二年 名著刊行会 上田萬年監修『国学者伝記集成 二巻』一九七二年 名著刊行会 世田谷区立郷土資料館編『江戸の文人交友録』一九九八年 世田谷区立郷土資料館 斎田記念館・世田谷区立郷土資料館編『江戸の博物図譜』一九九六年 世田谷区立郷 土資料館 常葉美術館編『水墨山水画展』一九九八年 常葉学園 佐藤道信『明治国家と近代美術』一九九九年 吉川弘文館 東京国立文化財研究所編『明治期万国博覧会美術品出品目録』一九九七年 中央公論 美術出版