小学校学習掛図は、明治時代初期に学制のもと、小学校の一斉授業用の教材として使用され始めたものである。1873(明治6)年に東京師範学校がアメリカの教材用掛図に模して、『五十音図』『数字図』『単語図』などの掛図を最初に編集刊行したものを翌年文部省が改訂して、各都道府県の師範学校に重刻させ、普及したといわれる。*1
本稿においては、富士市内一色の杉山家に長年保管され、平成12年度に本館に寄贈された明治初年小学校掛図26点の特徴や資料価値などについて、各地の関連施設の調査研究をふまえながら、考察していくことにする。
今回本館に寄贈された明治初年小学校掛図は、市内一色で長年大規模に農業を営んできた杉山静男氏宅の納屋に保管されてきたもので、平成10年に新設開校した青葉台小学校の地域資料提供の呼びかけがきっかけとなって、発見されたものである。
杉山家は、古くから農業を大規模に営み、明治時代の地租改正にともなう土地測量では、地域の顔役的な存在であったといわれる。その関係で、行政ともかかわりのある家柄であった。さらに、江戸時代末には、広大な敷地の一部を寺子屋に提供していた話が語り伝えられ、教育にも関心が深かった。このようなことを背景にして、明治時代初年小学校掛図26点が長年杉山家で保管されてきたのである。
この一連の掛図の一部は、平成10年に青葉台小学校で明治時代の学習教材として紹介された後、富士市立博物館の平成11年「かみing博物館-和紙と洋紙-」展、平成12年「20世紀写真のなかの富士-学び舎のあの日-」展に資料展示された。そして、この間の文献資料を中心とした調査で掛図の希少性が判明し、平成12年3月に杉山家のご理解とご好意により、本館に寄贈された。
これらの掛図は、明治時代初期、教材として和紙に単色あるいは多色印刷されたものである。各掛図の名称・内容についてまとめたのが(表1)である。基本的に2枚1組になっていて、この中には、紐やそれを通す時の止め金が残されているものもある。これによって、当時壁面につるして表裏を繰り返しながら使用していた形態をうかがうことができる。これらの掛図の種類をみていくと、五十音図、伊呂波図、濁音図・次清音図、羅馬数字図、第一~八単語図、第一~十連語図、数字図、算用数字図(推定)、乗算九九図、加算九九図となっている。単語図と連語図、算用数字図をみていくと、一部欠落しているものもあるが、多色刷りの状態を比較的よく保っている。また、掛図の版年は、一部を除いて明治七年改正版となっている。さらに、文部省の元版の他に、元版から作成された「静岡縣師範学校重刻」版もいくつか存在している。
NO | 発行年 | 掛図名 | 内容 | 備考 |
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1-1 | 明治7改正 文部省 | 五十音図 | ア イ ウ (タテ55cm×ヨコ72cm) | 2枚1組(以下同じ) |
1-2 | 明治7改正 文部省 | 伊呂波図 | あ い う | |
2-1 | 明治7改正 官許明治8 | 濁音図 次清音 | ガ ギ グ パ ピ プ (52×44) | 一部紐付 |
2-2 | 明治7改正 官許明治8 | 羅馬数字図 | Ⅰ Ⅱ Ⅲ | 〃 |
3-1 | 明治7改正 [文部省] | 第一単語図 | イ 糸糸 犬 (75×57) | カラ-口絵 |
3-2 | 明治7改正 [文部省] | 第二単語図 | ホ 顔 | 〃 |
4-1 | 明治8改正 静岡県師範学校重刻 | 第三単語図 | 桃 茄子 (75×58) | カラ-口絵 一部止金紐 |
4-2 | 明治7改正 文部省 | 第四単語図 | 亀 釜 | 〃 |
5-1 | 明治7改正 文部省 | 第五単語図 | 本 筆 (74×57) | 〃 |
5-2 | 明治7改正 文部省 | 第六単語図 | 口 手 | 〃 |
6-1 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 第七単語図 | 蝉 松 (74×56) | 官許明治8 カラ-紐付 |
6-2 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 第八単語図 | 鶴 馬 | 〃 |
7-1 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 第一連語図 | 神人 天地 萬物 (76×57) | 官許明治8 カラ-紐付 |
7-2 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 第二連語図 | 学校 書物 手習 | 〃 |
8-1 | 明治7改正 文部省 | 第三連語図 | 其処 此処 (一部欠損) (76×58) | カラ-口絵 紐・止金付 |
8-2 | 明治7改正 文部省 | 第四連語図 | 地球 日 月 (一部欠損) | 〃 |
9-1 | 明治7改正 文部省 | 第五連語図 | 穀類 魚類 獣肉 (78×58) | カラ-口絵 一部紐付 |
9-2 | 明治7改正 文部省 | 第六連語図 | 衣服 木綿 麻 | 〃 |
10-1 | 明治7改正 文部省 | 第七連語図 | 大工 左官 家 (75×58) | カラ-口絵 一部紐付 |
10-2 | 明治7改正 文部省 | 第八連語図 | 走 臥 (一部欠損) | 〃 |
11-1 | 明治7改正 文部省 | 第九連語図 | 前後 左右 勉惰 (77×58) | 一部紐止金付 |
11-2 | 明治7改正 文部省 | 第十連語図 | 秤目 | 〃 |
12-1 | 明治7改正 官許 | 数字図 | 0 一 二 三 (51×38) | 官許明治8 紐付 |
12-2 | (不 明) | [算用数字図] | 1 2 3(一部欠損) | 改正前の元版の可能性 |
13-1 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 乗算九九図 | 九九表(67×57) | 官許明治8 紐付 |
13-2 | 明治7改正 静岡県師範学校重刻 | 加算九九図 | たし算表 | 〃 |
* 官許-文部省の許可を得て発行したもので、年代・地域によっては、 師範学校ではなく、民間で発行したものがある。 *[ ]は推定されるものを表す。 *『文部省掛図総覧』(東京書籍)によれば、明治6~7年の静岡県内の 五十音図・数字図などの翻刻部数は、各3,000部といわれる。
平成13年4月、日本教育史の領域で著名で、小学校掛図研究の第一人者といわれる佐藤秀夫氏*2に依頼して、これら一連の掛図資料の鑑定を本館において実施した。佐藤秀夫氏からは、次のような主旨の鑑定報告がなされた。
そして、以上のような鑑定内容を平成13年5月富士市文化財審議会に報告したところ、資料価値の高いものであることは判明したが、さらなる詳細な調査の必要性があるとの意見を受け、明治初年掛図を所蔵する国内諸施設の調査研究を行うことになった。
東京書籍附設東京書籍文庫(東京都北区)は、明治時代以降の教科書や掛図などの教育資料を体系的に収蔵していることで知られている。平成13年7月富士市文化財審議会委員、教育委員会職員、博物館館長・指導主事らを中心に、この文庫で所蔵している明治初年小学校掛図の調査を行った結果、次のようなことが明らかになった。
愛媛県宇和町の開明学校は、明治時代小学校掛図の国内随一のコレクションを保有している。また、それらのうちのいくつかは、同町の先哲記念館に保管されている。平成13年9月富士市文化財審議会委員の若林淳之静岡大学名誉教授、富士市教育委員会文化スポーツ課渡井義彦主幹、本館指導主事内田昌宏で、調査を実施した。
開明学校は、1882(明治15)年建築の洋風要素を取り入れた木造2階建てで、昭和48年の修復を経て、平成9年国の重要文化財に指定された。現在内部は、教育関連の資料室や模擬授業用の教室として使用されている。開明学校には、江戸時代から昭和にかけての教科書・掛図や学校経営資料など約6千点が所蔵されており、このうち、明治時代初期学習掛図43点は保存状態もよく、国内随一といわれている。これらの学習掛図のほとんどは、湿度管理の施設の整った先哲記念館で、軸装に修復された状態で保管されている。また、開明学校では、これらの学習掛図をはじめとして、教科書や学校関連資料の豊富な展示を行うとともに、司書の方が来館者を対象に学習掛図レプリカを活用した明治時代の模擬授業を積極的に実施している。
開明学校所蔵の明治初期学習掛図と富士市立博物館所蔵のものとを比較すると、サイズは、東京書籍文庫所蔵品に多くみられるこぶりなものでなく、文部省版を元にしているとみえてほぼ同じであるが、内容的にはいくつかの相違点もみられる。
ところで、先述したように、単語図・連語図ともに、本館所蔵品と開明学校所蔵品とは、色合いのちがいが一部にあったり、算用数字図の数字の配列が異なったりする点がみられた。この背景には、文部省の元版が複数存在したか、あるいは、それぞれの再版元の再版の際に生じた可能性が考えられる。開明学校の明治初年の掛図には、この地域の師範学校もしくは再版元の表記は残されておらず、文部省の元版である確率が高い。開明学校所蔵の明治初年掛図は、昭和35年の発見の経緯から、もともとは宇和町久枝地区に明治8年に設立された旧日新学校で使用されたものとみられているが、この地域に掛図がもたらされたル-トを裏づけるはっきりした資料はないようである。ちなみに、開明学校で所蔵している明治初年掛図の改訂版的性格をもつ『小学指教図』とその教師用版ともいわれる『小学指教図入門』の出版地は、関西文化圏の中心地大阪である。なお、宇和町の近くの大洲は、古くから和紙の生産地として有名であるが、その和紙が掛図用紙に使用されたのかについては定かでない。*3ともあれ、今回の調査では、国の重要文化財として有名な長野県松本市の開智学校を上回る国内随一の明治初年掛図コレクションを誇る開明学校にさえない、地域師範学校重刻の名入りの掛図が含まれる点や、掛図の2枚張り合わせという当時の使用形態を物語る点などが、本館所蔵掛図の特色としてうかびあがり、その資料価値を再認識することができた。*4
今回杉山家から本館に寄贈された明治初年学習掛図は、どの学校で使用されたものなのであろうか。この点については、まず、明治8年に一色地域を学区の一部として開校した神戸小学校の前身の七邑舎での使用が考えられる。だが、神戸小学校の沿革史には、七邑舎における教材・教具などのくわしい記録は残されていない。ところで、明治時代初期の学制公布当時は、各地域ごとに小学校の設立が進められたが、財政状況や就学人数などにより、必ずしも新しい小学校が教育の場になったのではなく、それまで各地区にあった寺子屋や私塾などが、過渡期の措置として分教場的な役割を果たす場合があった。先述したように杉山家には、江戸時代後期に敷地の一部を寺子屋に使用していたという話が伝わっている。また、興味深いことには、同じ一色地区の杉山家のほど近くにある藤田誠一氏宅には、明治初年掛図の解説書的なものとして発行された『小学入門乙号』(明治8年)と、『小学読本』(明治7年)、『新撰小学読本』(明治15年)などの教育関連書が、当時の藤田家の家人名入りで伝えられてきた。
これらのことから、一色地区に七邑舎の分教場的な施設が存在し、そこで一連の掛図が使用された可能性が考えられる。しかしながら、杉山家の菩提寺の過去帳や一色地区の歴史の言い伝えの中には、この説を補完する資料はみあたらなかった。*5むしろ、杉山家・藤田家ともに古くから地域の顔役として行政とのつながりがこく、何らかの経緯で行政機関から教育関連の諸資料が両家に伝えられてきた可能性が有力視されるのである。
富士市文化財審議委員の若林淳之氏は『吉原市史中巻』にある明治6年当時の比奈村に設立された吉永第一小学校の前身穆清舎の記録に着目する。穆清舎の「村立小学校設置開校開申書」(明治16年)によれば、使用教科書表の中に「第壱年期読書ノ部 単語図第三ヨリ第八迄 連語図第一ヨリ第五迄第弐年期読書ノ部連語図第六ヨリ第10迄」という記載がある。若林氏は、穆清舎と同様に、七邑舎でも同時期にこれらの単語図や連語図などを当時の教育界の課題であった全国共通の一定水準を満たす教材として、使用したことが考えられると指摘する。明治時代の中頃以後、学習掛図は児童個人用の教科書へとその主な役割をバトンタッチしていくわけであるが、明治時代初期の富士市内小学校教育黎明期のくわしい教材・教具の記録は全体的に乏しいものである。だからこそ、杉山家・藤田家に伝えられてきた明治時代初期の一連の資料に、その存在価値をもとめることができるともいえるのではないだろうか。
さらに、これら学習掛図の重刻の背景に言及することにしたい。一連の学習掛図の中に「静岡縣師範学校重刻」という名の入ったものがいくつか存在する。このことから、師範学校の所在地である静岡市内で印刷された可能性がある。この点について、静岡大学教育学部と大学図書館の調査をおこなったが、大学所在地が過去に移転していることや空襲にあっていることなどで、関連する資料は残されていなかった。他の手がかりとして、静岡市内に古くからある錦絵技法にくわしい印刷関係者に連絡をとり、調査した。静岡市駒形通りの浦田周社氏は親子代々の刷り師である。浦田氏によれば、明治時代前半の当主が、当時盛んであったお茶の輸出の際に貼られた蘭字絵レッテルの刷りを手がけていたそうである。蘭字絵の手法は、掛図作成にも通ずる面があったようである。だが、教育関連の刷りものをしたという話は伝わっておらず、戦争中の空襲で当時の版木もほとんど失われたということであり、有力な情報を得ることはできなかった。
若林淳之氏によれば、一連の掛図の重刻された明治7年、8年という年代についても検討する重要性があるという。それは、静岡県師範学校が開設されたのは、明治8年3月であり、時間差のある「七年重刻版」をどのように解釈すべきかということである。明治7年県内には、小学校教育普及の課題であった教員養成のためにいくつかの師範研修所が設置され、県外からも先進的な指導者を招いていた。そして、当時先進的な児童の五官を重視した開発教授法の普及が重視されるながれを背景にして、静岡県師範学校開設前の明治7年の段階で、掛図の重刻が行われたことが考えられるという。*6
本館所蔵の掛図の重刻場所は、はっきりとしないが、若林氏の指摘する教育界のながれと、もともと江戸幕末から明治にかけて沼津学校や静岡学校などにかかわって教育書出版に精通した経験をもち、学制公布以来の教育出版ブ-ムで活気を呈し始めていた県内出版業界の技術とが相まって、一連の掛図が重刻されたものと思われる。
明治時代の教育界は、初期の掛図中心から、やがて教科書中心にシフトしていく。東京に近く、中央の文化・経済の影響をうけやすい静岡県では、比較的このスピ-ドが早かったといわれるだけに掛図主流の時期は短期間であり、その分掛図の出版記録も残りにくかったともいえよう。*7
これまで述べてきたように、杉山家から本館に寄贈された明治初年小学校掛図は、様々な資料価値をもつものである。教育史の上では、まず、その消耗品的な性格上、全国的に残されている初期掛図が数少ない中で、存在していること自体の価値がある。特に、張り合わせという当時の使用状況を物語る点に着目すべきである。次に、教科書が一般的に普及する以前の、明治時代初期の時代を反映した教育内容・形態や、その背景にある教育水準の一定化・地域の教員養成などを紐解く貴重な価値を有していることである。
さらに、現代的な意味においても、視聴覚教材の先がけである学習掛図のもつ教育的効果を再評価することが重要なことではないだろうか。その第一は、静止画像のもつよさである。学習のながれの中で手軽に何度もくり返し、あるいは、立ち止まりながら使用することができる。第二には、初心者・低学年児童にも親しみやすいような絵と文字がワンセットの構成になっていることである。第三は、もともと一斉授業用に開発された性格のものであるが、集団学習における思考を深める段階での共通教材として有効なことである。ことに、今日では、コンピュ-タ-を活用した個別学習が重視されており、その成果を発揮しつつあるが、集団学習での学習課題発見・追求の場面では、児童が掛図(あるいはそれに類する自作資料)を使って自分の考えを述べたり、他の学習者に問いかけたりする際に果たす役割は依然大きなものがある。その一方で、情報量が限られていたり、単なるつめこみになったりする場合もあることには留意する必要はあるが、以上のような点に着目することも意義のあることであろう。
また、佐藤秀夫氏の指摘にもあるように、本館所蔵品のような地域の師範学校名入りの掛図が全国的に稀有であるということが重要である。明治時代初期の教育関連の印刷史を考える上での資料としても価値のあるものである。
平成13年10月の富士市文化財審議会において、本館所蔵の一連の掛図の資料価値が全国的にも高いものであるとの再評価と、然るべき保存・活用の推進の指摘を受けて、本館では、その検討に入った。そして、2枚張り合わせという当時の使用形態をいくつか残して補修するとともに、本館掛図コレクションの体系化を図り、展示や貸し出し資料として役立てるために開明学校所蔵品の複写も視野にいれながら、レプリカを作成する計画を立てた。そのうえで、常設展示教育コ-ナ-の充実。本館見学の際、明治初期の教育施設である原泉舎を会場にしての掛図の説明。夏休みの子ども向けの博物館事業の中での掛図のミニ模擬授業体験。さらに、小学校3・6年生の社会科における文明開化時期の歴史学習資料としての貸し出しなどの構想をうちだした。
今後、教育史研究者、博物館利用者らの声にも耳をかたむけながら、これらの掛図の保存と資料価値を生かしたのぞましい活用法を構築することが重要である。それと同時に、時代のながれで忘れ去られようとしている教室の中の教材・教具の記録・保存にも目をむけていきたいと考えている。
*1 明治時代初期の段階では、和紙や輸入に頼っていた洋紙を原料にした 教科書を児童個人に配布することは経済的に困難であることが、掛図普 及の一因でもあった。 *2 元国立教育研究所第一研究部長。現在日本大学文理学部教授。著書に 『日本近代教育百年史』、『井上毅の教育政策』、『明治前期文部省刊 行誌集成』の他、掛図について詳細に解説した『文部省掛図総覧』(共 編)などがある。 *3 静岡県は駿河半紙の産地であったが、地元の和紙が本館掛図に使用さ れたことを裏づける資料はみあたらない。 また、本文で後述するが、市内一色藤田家には、本館掛図と同じく明治 時代初期に出版された『小学読本』、『児童心得』などの教育書が残さ れている。その巻頭・奥付には「吉原書林」、「吉原本町百六十五番地」 といった地元の翻刻・出版を示す記載がある。 *4 佐藤秀夫氏によれば、開智学校には教科書・教育文書類がおよそ4万 点あるが、明治初期の掛図は2点である。ちなみに開明学校と開智学校 は姉妹館の提携を結び、調査研究や展示に役立てている。 *5 寺子屋に関連した場合にみられる筆子塚も発見されなかった。 *6 平成13年10月富士市文化財審議会の若林氏の調査報告書による。 *7 本館所蔵掛図の出版地を特定するものではないが、『静岡県印刷文化 史』(静岡県印刷工業組合編)によると、県内出版史明治7年の項に掛図 単語図を指すとも思われる「単語篇一-三 文部省編 浜松県翻刻」と いう記載をはじめ、明治8年『万国地誌略』、明治14年『児童心得』 などの翻刻・出版状況が示されている。