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調査研究報告№7

平成10年度寄贈「松永家文書」について

富士市立博物館学芸員 工藤美奈子

はじめに

 当館では平成一〇年、富士市平垣にあった豪農・松永家が所蔵する資料の寄贈を受けた。富士市中島の旧居宅の取り壊しにあたって、松永家より申し出をいただいたものであり、文書・書籍一七六点、写真が二四六点である。
 松永家は現在富士市より転出しており、松永家を物語る資料も散逸している。これまでに富士市史編纂室によって整理されているのは遠藤家旧蔵文書(富士市立中央図書館蔵、以下遠藤家文書)と堤家旧蔵文書(富士市立博物館蔵、以下堤家文書)がある。
 今回寄贈された一七六点の文書・書籍資料のうち、近世から明治前半の文書資料は、富士市の古文書整理作業に漏れていたものである。
 当館では開館以来、何回かにわたって寄贈、または寄託の形で文書、書画など松永家の資料をお預かりしている。これらを合わせて、平成一二年度に館蔵品展として松永家について紹介する展示会を予定している。


松永家の概略

 松永家は、明治期、静岡県内でも有数の大地主であった。松永家の系譜を知りうる資料としては、由緒書きのようなものは遺されていないが、松永家で所有する「松永家記録」(昭和になってから作成されたもの)がある。これによれば一世五左衛門が甲斐国よりこの地に移住してきたが、その年代は不明であるという。一世は明暦元年(一六五五)に没している。六世好時が「中興の 祖」と記されており、このころより土地集積を進め、財力を蓄えたようである。その財力を背景に、江戸末期には富士郡下の平垣村他六ヶ村を領地とする旗本日向小伝太から旗本領の取締役を命じられ、邸内にその陣屋(小塚陣屋)を構えていた。また明治元年(一八六八)には天皇の御東行の際に、小休所として使われている。
 明治に入るとともに陣屋詰めは解職となるが、戸長、郡会議員などの公職に就くほか、小作米の販売や金貸し、養蚕などにも携わっていた。また鉄道の停車場設置や製紙工場誘致などに奔走し、小学校の建設資金を提供するなど、公共事業に携わった。明治三〇年(一八九七)には当時の当主が貴族院議員に当選している。昭和四年(一九二九)の町制施行後は町長を務め、この間更に二つの企業の誘致を成功させ、富士市の工業都市たる基盤を作り上げるのに貢献した。
 平垣村は、東海道の吉原宿と蒲原宿の中ほどに位置し、松永家も東海道に面していた。邸宅は安政四年(一八五七)に新築された記録があり(一)、その豪壮な屋敷と庭園が明治二五年(一八九二)の『静岡県明治銅版画風景集』に紹介されている。母屋だけでも、建坪は一五〇坪に及ぶという。この邸宅は昭和に入ってから製紙関連企業が買い取り、後に旅館として使用されていたが、この旅館の改築に伴い、昭和五四年に富士市に寄贈された。現在は当館西側の「ふるさと村」内にその一部が移築されている。
明治時代の松永家邸宅 移築された松永家邸宅
▲(左)明治時代の松永家邸宅『静岡県明治銅版画風景集』より
▲(右)移築された松永家邸宅(広見公園内)


明治時代前半までの松永家

 明治時代の松永家について、いくつかの資料を拾い上げてみよう。
 遠藤家・堤家文書は小塚陣屋宛の文書が多く、近世の旗本領取締役としての松永家の役割を示すものである。これに対して平成一〇年度寄贈文書には明治時代前半までの小作取立帳、米穀売却簿など松永家の土地経営、つまり地主としての性格の一端を示す資料が含まれている。(以下、所蔵を明記しない文書は、平成一〇年度寄贈文書である。)
 現在の富士市内には、潤井川が北西から南東の方向に流れて駿河湾に注いでいる。松永家があった平垣村を含む加島平野は、潤井川より取水した灌漑用水によって潤され、かつて「加島五千石」とうたわれた水田地帯だった。江戸時代初期に雁堤が築堤されて大河川・富士川の治水が進むと、富士川と潤井川に挟まれたこの地域は新田開発が行われていった。この水田地帯で松永家は土地集積を進めたが、それはもちろん加島地域にとどまらず、周辺にも及んでいった。
クリックで拡大  松永家の土地所有について、遠藤家文書に「拾六ヶ村所有地旧石高貢租取調帳」(富士市史資料目録分類番号C三四)、「拾七ヶ村貢租旧石高取調簿」(同X一六)という二冊の文書がある。村ごとに松永家所有の石高と貢米、その金額が記されているものである。
 C三四の一六ヶ村は潤井川右岸つまり加島平野の村々で、X一六の一七ヶ村は左岸の村々である。これを合計すると、松永家は、富士郡下三三ヶ村で一三四四石余にのぼる土地所有をしていたのである (図一)
図一 松永家が所有していた土地の石高(単位・石)

 明治時代に入って地租が金納化されるのに伴い、地主への土地集中が進み、小作地の割合は高くなっていく。静岡県にあっては、明治三〇年代に小作地率はピークを迎えたという。この時期の松永家の土地集積の状況は、限られた資料の中からうかがい知るこ とができないが、このように広大な小作地経営を行うなかで、地主は現物納される小作米を換金せねばならない。
 松永家に集積される小作米は、自宅の米蔵のほか、各村の郷蔵に納められ、そこから売りさばかれていた。これについては明治一四年から一八年までの米穀売却簿が残されており、一年間で三 千~四千俵の米を売り上げている。
 興味深いのは米穀売却簿の中にある酒造米貸渡記の項で、明治時代この地域に存在した田中佐太郎、時田啓三郎、鈴木利七、大 村隆平(庵原郡)らの造酒屋に酒造米を売っている点である。
 「加島五千石」と呼ばれた米どころをひかえ、この地域では江戸時代から酒造が行われていた。特に、平垣村に隣接する本市場村は江戸時代後期には白酒を名物とする東海道の間宿として知られ、その様子は浮世絵の題材にもなっているほか、高力猿候庵『東街便覧図略』でも「冨士之白酒店」が詳細に描かれている。
 明治七年(一八七四)には、酒類は旧富士郡工産物の三六.二パーセントを占めて一位となっている。造酒屋は彼ら自身が地主である場合も多いが、松永家では酒造を行っていた記録はみられない。
米穀売却簿 調達金銘細帳
▲(左)米穀売却簿 明治14~18年(1881~1885) 松永安光氏寄贈
▲(右)調達金銘細帳 明治6年(1873) 松永安光氏寄贈

 このほか、貸金業にも携わっており、二冊の貸金帳が残されている。
 表紙には明治六年と記されている「調達金銘細帳」は、安政四年から明治一〇年代にわたって記録され、もう一冊は「貸金計算帳」の表題で明治一二~二二年にわたって記録されている。借り主は加島地域の者が中心だが、東は東京・小田原、西は静岡市にも及んでいる。
 現金収入のもう一つの手段として、松永家では、養蚕業にも従事していた。養蚕は、明治期の産業として静岡県下でも盛んに行われたが、先に挙げた『静岡県明治銅版画風景集』では、二階建ての別棟で養蚕が行われている様子が描かれている。また、堤家文書の中には養蚕日記があり、その日の気温や給桑の量などが記されている。
 旧富士郡では明治一六年(一八八三)、岩本村に県下最初の養蚕伝習所が設置されたが、収繭高や桑園面積が増加を見せるのは明治二〇年以降になってからである。松永家では養蚕に早くから 取り組んでいたらしく、残されている養蚕日記は伝習所設置に先立つ明治一二年(一八七九)のものである。年間の支出を食料、呉服、書籍、下男下女の賃金など二十項目に分類して記録した「米穀代価 年間雑費 精算帳」のうち明治一四年(一八八一)のも のには養蚕費の項目も設けられ、蚕種や桑を購入するほかに桑畑耕作賃も支出している。
 明治三〇年(一八九七)には、当時の当主九世安彦が貴族院議員に当選している。平成一〇年度寄贈資料の中には、当選を祝って屋敷の飾り付けをした際の写真が何点かあるのみで、議員としての活動について伝える資料は残されていないが、貴族院多額納税者議員互選名簿によって当時の納税額を知ることができる。 明治二三年(一八九〇)に開設された貴族院の議員のうち多額納税議員は、各府県の多額納税者上位一五名の中から互選で一名が選出されるものである。九世安彦は明治二三年の第一回選挙時に納税総額が二四五七円八三銭で、静岡県内の最高納税者となっている。全国的にみても、二千円をこえる納税者は多くない。
 貴族院議員の任期は七年で、明治三〇年(一八九七)に二回目の選挙が行われたが、この時も二六三九円四三銭四厘の納税額で県下一位だった(二)。
明治三十年六月十日
▲此撮影明治三十年六月十日家主貴族院議員ニ當選シタル良日帰郷門前の光景(1897) 松永安光氏寄贈


明治時代後半から昭和にかけて

 時代が下るにつれて地主と小作の関係は次第に変化して対立を深め、大正時代には全国で小作争議や米騒動などが起こるようになる。このような地主小作関係に危機感を抱いた県では、農事改良の奨励や農作物の品評会等を行う農会や、地主会の結成を促す。『静岡県史』資料編一八 近現代二には大正四年一〇月三日の静岡民有新聞の次のような記事が所載されている。

「    地主と小作人/農事諸施設 農商務省よりの照会に依り、本県に於いて調査したる地主が個人として小作人の保護および農事奨励の為め、施設し居れる事業の大要を調査せる処、凡そ左の如し。 技術員設置 富士郡加島村の地主松永安彦氏は、甲種農学生にして雇人、小作人に対し農業上の顧問たらしめ、農事の改良を励め居れり。 耕地整理と奨励 前記松永安彦、安倍郡大里村宮崎喜久太郎は、農事奨励の為め、単独にて耕地を整理し以て農事奨励に勉め居れり。(以下略)」

 こうした流れのなかで、松永家では個人的に技術員を設置するなど小作地経営には心を砕いていたようである。松永家の年間支出を記録した資料の中には『農事図解』三一冊揃、『六部耕種法』一六巻揃、『農用化学』など、農書を購入している記事もみられる。
 大正七年(一九一八)には静岡県内各地でも米騒動が発生した。この状況下、加島村(明治二二年に平垣村ほか一五ヶ村が合併して加島村となる)にあっては松永家が貧民救済の施米を行い、米騒動のような事態は避けられている。
 このように小作地経営をおこなう一方、明治期のいわゆる素封家が行ってきたのと同様に、松永家でも小学校建設への資金提供、工場や鉄道の停車場誘致などの近代化事業推進の先頭に立つ。
 明治二三年(一八九〇)、旧富士郡下の鷹岡村に、東京に本社をもつ富士製紙会社が工場を建設した。原料や製品の輸送に供するため、東海道鉄道の鈴川停車場から鷹岡村にかけて馬車鉄道も敷かれた。加島村でも、明治三七年(一九〇四)より松永安彦ら一〇人が誘致委員となり、富士製紙第八工場と東海道鉄道停車場の誘致活動が始まった。
 この活動が実り、明治四一年(一九〇八)に富士製紙第八工場(現在の王子製紙富士工場)が、明治四二年(一九〇九)に富士停車場(現在のJR富士駅)が完成を見る。この二つのことがらは潤井川下流域の水田地帯に変化をもたらすことになる。
富士停車場開駅記念絵葉書 (左)富士停車場開駅記念絵葉書 明治42年(1909) 松永安光氏寄贈

 旧富士郡、特に加島地域では明治に入って換金作物として梨の栽培が盛んとなっていたが、富士停車場の設置以降、販路は拡大し、大正時代には静岡県の梨の出荷額は全国一位にまでなった。また、富士製紙第八工場の生産力を中心に工業生産額がふくらんでいき、昭和三年(一九二八)には加島村の全生産額のうち八六.三%を工業製品が占め、農業生産額は一〇.二%となっている。
 このような状況のなか、十世安衛は昭和四年(一九二九)より富士町議会議員を務め(三)、昭和八年(一九三三)~一四(一九三九)年の間は富士町長の職にあった。この間にも富士町は二つの企業(四)を誘致して工業都市を指向していくのである。
 この時には既に、後に合併して富士市となる地域には地元資本の製紙工場の設立が相次ぎ、「製紙業のまち」の様相を呈していたのである。


おわりに

 以上、松永家について寄贈文書の中から簡単に紹介してきたが、明治期には県内でも随一の豪農・大地主であったにもかかわらず松永家についての論考は富士市史にみられるのみである。今回の寄贈文書も数量、年代ともに限られたものであり、今後の分析に資するところがどれだけあるか難しいところであるが、東海地域では他にあまり例を見ない大地主に成長し得た条件や、製紙工場進出に伴う都市化、梨などの商品作物の栽培に代表される農業形態の変化への地主としての対応など、今後の調査・資料収集が必要であろう。
 また今回の展示会では西郷隆盛が松永家に立ち寄った折の書や、三条実万(三条実美の父)の書なども松永家のご厚意により展示させていただくことになっているが、これら中央の政治家や文人墨客との交流なども興味深い点である。
 江戸時代後期、旗本日向氏の領地取り締まりにあたった八世正方、明治期に地主として土地経営に従事する一方、工場誘致や学校建設に携わった九世安彦、農村から工業都市へ姿を変えつつあるなかで町長を務め、更に工場誘致に尽力した一〇世安衛、これらの松永家の人々を中心に松永家のおよそ百年にわたる歴史を追う中に、富士市そのものの近代化や工業都市への足跡がみえてくるのではないだろうか。 (文中敬称略)



(一)平成一〇年寄贈文書に、次のような普請に関わる資料がある。
「普請方諸式調帳」安政四年
「本家普請音信記」安政四年
「御本宅木草御証文外入用勘定帳」安政四年
「御本宅 建前木口不残並家根并土井葺板鋪板不残木口積立帳」安政三年
「普請ニ付見舞出来物覚帳」安政四年
(二)『明治期日本全国資産家地主資料集成』Ⅳより。明治三七年は一位、明治四四年は二位となっている。
(三)昭和四年に町制が施行され、加島村は富士町となった
(四)二社のうち一社は製紙会社、もう一社は繊維会社だが、後に製紙会社となった。

参考文献
若林淳之他『富士市史』下巻 一九六六
小木新造『ある明治人の生活史』一九八三
樋口雄彦「伊豆における平田派国学門人の一動向」
『沼津市博物館紀要一三』一九八九
静岡県『静岡県史』通史編五 近現代一 一九九六
渋谷隆一『明治期日本全国資産家地主資料集成』Ⅳ
中村政則「天皇制国家と地方支配」『講座日本歴史』八 近代二 一九八五
原口清・海野福寿『静岡県の百年』一九八二
富士市立博物館『第三五回企画展 夢を紡いだ時代』一九九七
富士市立博物館『第二三回企画展 富士市の製紙業』一九九一
富士市立博物館『第三七回企画展 加島 米と水~富士川下流の米作り』一九九八
富士市立博物館『第三三回企画展 郷土と酒~富士の麓の酒物語』一九九六

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