調査研究報告topへ 調査研究報告№5へ 調査研究報告№7へ
調査研究報告№6

京都府笠置町に伝わる「富士垢離」について

富士市立博物館学芸員 志村 博

はじめに

 真冬のよく晴れた日の夕暮れ、今まさに沈もうとしている夕日を受けて紅く染まった富士山は実に美しい。しばし、呆然と眺めていることがある。そんなとき、ふと「俺は富士山に住んでいる」という実感がわき、妙にうれしく思えることがある。そして、この富士山から私たちはどれだけの恵みを与えられてきたのだろうか。無限とも思える富士山の湧き水は多くの田畑を潤し、木々を育て、私たち人間や多くの自然動物に生きる糧を与え続けてくれている。まさに偉大な山である。そんな美しく、偉大な山である富士山もかつては大きな噴火を繰り返し、山麓の人々に大きな被害をもたらしたことも史実として残っている。最も新しい宝永四年の噴火は富士山噴火の中でも最大級の物だともいわれている。火山の噴火は近年日本各地で起こっている状況を見るとその恐ろしさは計り知れないものがある。
 このような富士山の美しさ、優しさ、そして荒々しさは私たち人間にはコントロールできない自然の驚異である。私たち日本人には、古くから高い山や巨大な石など、人間にはどうすることもできない物に対し神の存在を信じる自然神崇拝の考え方がある。恐らく、古代の人々もそびえ立つ富士山に山の神の存在を信じたことでしょう。
 奈良・平安時代、富士山は常に噴煙を上げ、数多くの噴火が記録されている。当時、祭政一致の国家である我が国は、富士山を火の山(アサマノヤマ)として、火之神(アサマノカミ)の怒りに触れないよう様々な祈りを捧げている。また、大きな噴火の度に神格をあげていることは、富士山の噴火が国家としての大事件であったことを示しているといえる。
 このように、名実共に神の山となった富士山は信仰の山として人々に崇められるようになってきた。


一、 富士山と修験

 このような、荒々しい神の山にはいり、自然と一体になることで自然の霊位を会得し、その力をもって人々の苦しみを救おうとするのが修験と呼ばれる山岳僧で、その祖は役の行者である。役の行者は富士山修験の開祖とされていることから、多くの修験者が富士山に入り修行をつづけていた。その中に「富士上人」と呼ばれる末代上人がいた。
 末代は富士市の岩本山実相寺を創建した智印上人とともに布教活動をした僧である。また、富士山に数百度も登り、山頂に大日寺という仏閣を建て、鳥羽上皇自筆の大般若経を山頂に埋納したとされる修験僧でもあった。末代は山中での修行中浅間大菩薩(大日如来)のお告げを受けたことで富士山の守護神となるべく、現富士宮市村山に興法寺を建て、大棟梁と号して自ら即身仏となったと伝えられる。
 その後、多くの修験者が末代の足跡をたどって村山の地に集まり、山中での修行を行う中、文保年間(一三一七~一三一八)頼尊という修験者により「富士行」が確立されると、村山修験は興法寺を活動の拠点として活動な開始し、天文五年(一五三六)には駿河の今川氏と組み、その勢力(霞場)を広めてゆくことになった。
 今川氏と結びついたことにより、富士山中における多くの統率権を手に入れた。絶大な権力を得た村山修験は富士山中の大半を霞場として押さえ、加えて遠州から京の都へと、西国を中心に初期村山修験の勢力を広げ、その後関東一円にまでも霞場を広げ、村山修験の絶頂期を迎えることとなる。


二、 富士垢離行家

 村山修験は、この絶頂期にさらなる勢力拡大のため、様々な制度や先達免許を与えている。特に富士山から遠い西国には「富士垢離」という特殊な信仰形態を認可した。
 この富士垢離について、『諸国図絵年中行事大成』には「富士垢離は、五月二五日から六月 二日まで、富士行者の山伏が毎日川辺に出て富士垢離を行い、富士権現を遙拝する。是は富士参詣と同じ行である。」と記してる。
 つまり、この富士垢離の行を行えば、莫大な費用を使い、遠い駿河の富士山まで参詣をしなくても、富士参詣と同じ徳をえることができる。というものである。
 この行を取り仕切る認可を受けた集団が「富士垢離行家」と呼ばれるもので、村山修験が聖護院門跡の名で認可するものである。この行家の広がりについて岩科小一郎氏は「冨士講の歴史」の中で、万延元年(一六〇〇)庚辰の富士御縁年に出版された『富士山用達 諸国道中定宿附』という道中案内の巻頭に出版発願主として記載されている内容から、その広がりを京都・伏見・大津と琵琶湖南岸に分布しているとしている。さらに、富士垢離については次のようにしるしている。

「山伏の富士垢離については、正徳五年(一七一五)改めと注がある「京 都御役所向大概覚書」の中で「山伏富士垢離之事」として「聖護院 御門跡 富士垢離 七拾九軒 内洛中五拾六軒 洛外弐拾三軒 垢 離場壱ケ所 壬生領夷森に清水之有 地主之相対仕 垢離執行之者 共 拾ケ年以前戌年(宝永三年=一七〇六)以来垢離場にいたし候」  とあって、江戸の冨士講が点の存在でしかなかった頃に関西にはこ の信仰が広まっていた。
 しかし、この制度は西国からの富士登拝の導者の数を減らす結果となり、村山修験にとって衰退への引き金となってしまった。


三、 京都府笠置町における「富士垢離」行事と村山修験

 前述した富士垢離行家に直接結びつく行事であるか否かは明らかではないが、京都府で「富士垢離」と呼ばれている富士山信仰行事が現 在でも行われているのでここで紹介しておく。
位置図 笠置町切山地区
△京都府笠置町・奈良県御杖村位置図 △木津川より笠置町切山地区を望む

 この行事は、現在の京都府相楽郡笠置町切山地区に伝わる信仰行事 で、毎年一月十五日から十六日と七月三一日から八月一日のそれぞれ二日間行われている。前者を「寒垢離」、後者を「土用垢離」と呼んいる。筆者が直接取材したのは、寒垢離である。
 この行事の行われている笠置町切山は、京都府と奈良県の県境、木津川が国道一六三号線沿いに東流する北岸(右岸)の山腹斜面、標高三〇〇m程に立地する四〇戸程の集落である。この集落の最も上に鎮座する八幡宮境内に木造の小祠、浅間神社が合祀されている。
 一月十五日の朝、前日降った雪が山全体を白く染め、肌に刺す寒さが身を引き締めていた。八幡宮境内にある集会所(籠堂)には、白装束(白ユカタ)と白足袋に身を固めた行者七名の他、氏子の方々が垢離の準備をしていた。籠堂の床の間正面の壁には浅間神社の掛け軸二福が掛けられ、左右には天井まで届く先付の篠竹が立てられ、篠竹の上部には約二mの注連縄が張られている。また、床の間の正面左には金の御幣三本、正面右には白の御幣三本が置かれ、中央には洗米、塩各二合と御神酒の他、菓子、御幣用の篠竹(五〇㎝程)七本が供えられる祭壇が用意されていた。
籠堂に設けられた祭壇 浅間大社より賜った掛け軸 浅間大社より賜った掛け軸
(左)籠堂に設けられた祭壇(右)浅間大社(静岡県富士宮市)より賜った掛け軸

 行事は、十五日の午前・午後に各二垢離づつ、十六日に午前二垢離、午後一垢離の計七垢離行う。

籠堂から浅間神社に向かう 浅間神社前で芝を取り、積み上げる 浅間神社と芝の積み上げた状態
(左)籠堂から浅間神社に向かう  (中)浅間神社前で芝を取り、積み上げる  (右)浅間神社と芝の積み上げた状態

垢離場の御神木に注連縄を掛ける 富士垢離の行(1) 富士垢離の行(2)
(左)垢離場の御神木に注連縄を掛ける  (中)富士垢離の行(1)  (右)富士垢離の行(2)

宮守より手水を受ける 垢離終了の後浅間神社前での拝み 籠堂に戻っての拝み
(左)宮守より手水を受ける  (中)垢離終了の後浅間神社前での拝み  (右)籠堂に戻っての拝み

 垢離場に向かうにあたり、床の間に供えられていた洗米・塩・御神 酒・行燈、御幣七本、注連縄(浅間神社用と井戸用の二本)の他、鍬一本を持ち、列をなして浅間神社に向かい、神前にて御神酒・洗米・塩・行燈を供え、持参した鍬で神前の芝を一鍬取り、祠横にある御神木に沿わせて積み上げ、篠竹で作った御幣七本を刺し、その周りに注連縄を掛ける。 その後、垢離場に向かう。
 垢離場は「浅間の井戸」(アサマノイド)と呼ばれ、山の緩斜面に畳一畳ほどの石囲いの浅いプールが造られ、山の絞れ水を竹樋で集めたものである。垢離場の北側に接して御神木 が一本立ち、御神木に注連縄を掛けた後、井戸の周りに持参した板を置き、行者は垢離場を囲むように座り、行を行う。この際、水の基には宮守が座る。
 宮守の合図で、一斉に右手の掌で水を払いながら「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー・ナナ・ヤツ センゲン ダイボーサツ」と唱え、これを三十三回繰り返す。最後に宮守が両掌で水を救い、他の行者一人一人に掌の水を手渡すと行者たちは口に含み、身を清め、一垢 離(ヒトコーリ)を終了する。一垢離終了の後、十分ほど休憩して、一垢離目と同様に二垢離目がはじまる。
 このように、午前中に二垢離を済ますと、行者達は浅間神社の祠に戻り神前に宮守を中心に座り、二拍手一礼して拝みを唱える。
 拝みの文句は次のとおりである。
 「キミョウチョウライ サンゲーサンゲー ロッコンショウジョウ オオムネ ハツダイ コンゴンドー フージハセンゲン ダイニチ ニョーライ」
 この拝みを五回繰り返し唱えた後、
 「ナム センゲン ダイボーサツ」と五回唱え、最後に二拍手一礼して籠堂にもどる。この際、浅間神社にお供えした行燈や洗米・塩などは籠堂にもどされる。
 籠堂に戻ると、床の間に設けられた祭壇に向かい宮守を中心に座り、二拍手一礼して同様の拝みを唱える。
 「キミョウチョウライ サンゲーサンゲー ロッコンショウジョウ オオムネ ハツダイ コンゴンドー フージハセンゲン ダイニチ ニョーライ」
 この拝みを五回繰り返し唱えた後、
 「ナムセンゲン ダイボーサツ」と五回唱え、最後に次のように願文を唱える。
 「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊大神宮、高良大神宮、弁天大神宮、九頭神社、水神社、山の神様、道楽神様 切山区に 鎮座まします神々様 切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊 穣にしてくださいますよう願い奉る。」
 二拍手一礼して午前中の二垢離が終わる。
 午後の二垢離もこの繰り返し、翌十六日も同様に垢離を行い、最後にいわゆる直会(ナオライ)を開いて寒垢離が終了する。なお、祭壇に供えた洗米は、御供さんとして参加者七名、区四役、組長五名系十六名分に分け、配る。また、夏の土用垢離も全く同様であると伺った。

 このように、二日間にわたる「冨士垢離」が終了する。このような富士山信仰行事はこの他にもいくつか報告されている。その中で、前述した笠置町の「冨士垢離」に類似する行事が、隣接する奈良県宇陀郡御杖村神末と愛知県北設楽郡豊根村三沢の集落にある。これらの行事は江戸の冨士講以前の修験道の作法で行われており、村山修験との関係を感じさせる行事であるので、簡単に報告しておく。

① 奈良県宇陀郡御杖村神末の信仰行事
この集落は、後の江戸の冨士講で知られる食行身禄の生地に隣接する村で神末の「浅間さん」と呼ばれている信仰行事である。報告によればその内容は次のとおりである。
「十二、三人の講員で構成され、精進料理で七日の禊ぎをする。男が料理をつくる。材料は麩・竹の子と野菜でまかなう。服装は白いゆかた、帯も白で草履履きである。一日に二、三回禊ぎをする。この時「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー ナム ゴンゲン センゲン タイシ(南無権現浅間大師)」と唱える。晴れの日は草履履き、雨の日は下駄履きで、履き物は終わると屋根裏に吊しておき、また来年使う。中の日を中ゴウリといい、ゴクと御幣をつくり、川の近くで竹で棚をつくる。前には草履を置き、竹の先には布を掛け、ミソギをしながら連珠をくる。部屋には掛け図を掛け、精進料理を供える。当屋は順番でもちあう。病気の神願もした。」注 十六
 この報告に対し「ここの講も村山口を拠点とするものであろう、村山口は富士信仰発祥地として知られるところであり、冨士講以前の修験道の作法で行法が行われていた。それを信徒が自分の故郷に持ち帰り、今に伝わるものがなきにしもあらずである。」と記している。
② 愛知県北設楽郡豊根村三沢の信仰関係文書
この古文書は嘉永三年(一八五〇)庚戌六月吉日書之、聖護院直山、富士山別当、大鏡坊の名がある。
文書の内容は、表紙に「冨士浅間大神拝」とあり拝みの唱文が書かれている。ー中 略ー
 全体に修験色の濃いもので、はじめに「富士山浅間大勒大事大峰役行者大勒大事 富士山勒大事」と三行にある。ついで呪文が「とうぼうのみえのため、かんこんそりこんだけん、はらへたまへきよめてたまへ。百八ぺん」とあり、その次に呪文が尻切れになっている。中間に読み上げる神名が並び、東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王と四方固めの明王の名号があって「いちいち らいはい、きみょうちょうらい、ざんげざんげ六こんしょうじょう、をしめにはつだい こんかうどうじ、りやうぶの大日大りやうごんげん、ふじは せんげん だいぼさつ」と結んでいる。筆者は大鏡院御門人柳沢菊弥・道円坊とある。

 以上二つの資料に見られる記述の中で注目すべきものが数多く認められる。
 ①における笠置町との共通点としては、まず服装である。服装は、白いゆかたに、白い帯で草履履きであること。一日に二ないし三回のミソギを行い、そのとき唱える呪文が極似していること。また、ミソギをしながら連珠を送り、数えることや籠堂のような中での祭壇や供え物など微妙なちがいがあるものの、概ね笠置町の富士垢離と一致している。このことについて、この行事が村山修験に強く係わる行事であることが指摘されている。
 ②についても呪文の結びがほぼ一致している。また、この文書には明らかに村山大鏡坊と記されている。これらの共通点から、今回紹介した京都府笠置町の「富士垢離」が村山修験に深くつながっていることがわかる。これが前述した岩科氏の「冨士講以前の修験道の作法で行法が行われていた。それを信徒が自分の故郷に持ち帰り、今に伝わるものがなきにしもあらずである。」ということを裏付けることになるとともに、関西における富士垢離行家の活発な活動の裏付けともなるものである。


まとめ

 以上のように、江戸の冨士講以前の修験道的な富士山信仰は平成の世になっても人々の間に根強く残っている事実を目の当たりに見ると衰退の一途をたどったとされる村山修験の活動が、確実にその土地に根付いてたという証になる。このような信仰活動は、まだまだ各地に残っていることを信じて、村山修験の足跡をたどる調査を続けて行く必要性を感じる。
 なお、本稿執筆にあたり笠置町の松本二三男・丸山繁夫の両氏をはじめ、笠置町の富士垢離関係者の方々には、大変お忙しい中、多大なご指導ご協力を賜り厚く御礼申し上げます。
切山集落より木津川を望む 切山集落より木津川を望む

( 補 注 )

注 一  富士山の噴火の記録については天応元年(七八一)続日本記に記されているの
    を初めに、延歴十九・二一年、天長三年、貞観六年・十二年、承平二・七年、長
    保元年、寛仁元年、長元六年、永保三年、永正八年、永禄三年、元禄十三年、宝
    永四年の十六回の記録が見られる。このうち、延歴十九年の噴火では足柄道が埋
    没し、箱根道が開設され、貞観六年の噴火では、流出した溶岩で精進湖と西湖に
    分断され、宝永四年の噴火での噴出物は八億五千万立方メートルと推定され、三
    大噴火と呼ばれています。また、承平二年の噴火では、大宮の浅間神社が焼失し
    ています。(『富士山の自然と砂防』一九九〇・建設省富士砂防工事事務所) 

注 二  富士山の神格については仁寿三年(八五三)には従三位、貞観元年(八五九)
    正三位、延喜七年(九〇一)には従二位と神格をあげている。
                            (「静岡県の歴史」より)

注 三  「元亨釈書」や「続日本記」では富士山修験の開祖とされ、「慶長見聞録」には
    「…役行者みつけ、此方、皆人登…」と記されている。

注 四  このように、各地の山岳修験はその超人的な運動能力と集団としての情報ネッ
    トワークを活かして、いわゆる忍者として各地の戦国大名との結びつきを強めて
    ゆく。

注 五  天文十一年(1536)駿河・遠州の修験者の取締りを命じられ、以降、村山修験は
    両国における修験の支配権を認められる。さらに、村山興法寺が富士修験の聖地
    とされ今川氏の庇護をうける。(「富士宮市史」より)

注 六   修験は真言宗当山派修験と天台宗本山派修験の二派に別れ、それぞれに霞場争
    いを行ってきた。富士山においても同様であったが、修験道を持ち込んだ末代が
    天台宗当山派に所属していることから、その主流は村山を中心とした当山派修験
    であった。しかし、本山派に属す甲斐修験も古吉田(現富士吉田市)を中心に活
    発な活動がおこなわれていた。

注 七  「冨士講の歴史」 岩科小一郎 昭和五八年名著出版 三八頁

注 八  「冨士講の歴史」 岩科小一郎 昭和五八年名著出版 三八頁十八行目~三九
    頁三行目

注 九  『八幡宮年中行事控』によれば、冨士垢離を行う行者は宮守新旧二名、寺社総
    代四名、他一名(宮守修了者)の七名から構成される。地元の松本二三男氏によ
    れば、宮守は八幡宮の神事を取り扱う代表者でいわゆる氏子総代のことで、切山
    地区の五〇から五六歳ほどの氏子が年の順に二年交代で受け持つ。また、寺社総
    代四名については二月の総会で切山地区の上下で二名づつ選出され、一期二年で、
    二~三期ほど行う。

注 一〇 正面右側の軸には「冨士浅間大神」と墨書され、中央に御神影その下に富士山
    が描かれている。正面左側の軸には全面御神影が彩色されて描かれている。
     二福ともかなり古いもので、お話を伺った松本氏の父親が六〇年ほど前に現在
    の浅間大社(静岡県富士宮市)から譲り受けたものだそうである。

注 十一 この芝は毎年積み上げてゆくため、現在一m程の高さになっている。

注 十二 この石囲いの垢離場は昭和五四年に造られたものであり、それ以前は斜面を流
    れる絞れ水をせき止めて垢離場を造っていた。

注 十三 「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー・ナナ・ヤツ センゲン ダイボーサ
    ツ」を繰り返すとき、宮守は数珠の球をひとつづつ移動させ、三十三回の数を数
    えている。

注 十四 この拝みでは初めの「キミョウチョウライ」という文句は一番はじめだけ唱え、
    二巡目からは「サンゲー サンゲー ロッコン ショウジョウから繰り返されて
    いた。但し、『年中行事控』では「キミョウチョウライ」を含めて五回繰り返す
    とされている。

注 十五  注 十四と同じ

注 十六 文化庁編『日本民俗地図』第三巻

注 十七 「冨士講の歴史」 岩科小一郎 昭和五八年名著出版 三四頁七行目~九行目

注 十八 大鏡坊は村山修験の三坊の一つで、池西坊と辻之坊で村山三坊と呼ばれている。

注 十九 「冨士講の歴史」岩科小一郎 昭和五八年 名著出版 三七頁八~十五行目

注 二〇 注十七と同じ


<参考文献>

岩科小一郎   「冨士講の歴史」   名著出版     一九八六
遠藤秀男    「富士宮市史」上巻(再版)   富士宮市 一九八六
富士砂防二〇周年誌編集委員会 「富士の自然と砂防」 建設省富士砂防事務所 一九九〇
小林一蓁 「修験道の本」  学習研究社  一九九三
富士市立博物館 企画展解説図録「富士山信仰と富士塚」  富士市教育委員会 一九九五
富士市立博物館 「富士塚調査報告書」 富士市教育委員会  一九九六
文化庁編    『日本民俗地図』 第三館

このページtopへ