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調査研究ノート№1(博物館だより№31より)

雛祭りと天神さん


三月三日は桃の節句、雛祭りとして知られています。 初めての女児が生まれた家では母親の実家や親戚から雛人形が贈られ、 初節句を祝う習慣が全国的に広く行われています。 この日は一般に女児の節句という印象が強いことでしょう。

 しかし昭和30年ころまで、 富士市では男女に関係なくこの日に初節句を祝う習慣がありました。 (富士市では、おもに月遅れの四月三日)初めての女児ならば雛人形、 初めての男児ならば天神人形が母親の実家やカネオヤ (鉄漿親。この地方では結婚の際に立てる仮の親)などから贈られました。

天神人形 天神人形の墨書
▲大正11年の天神人形 ▲大正11年の天神人形の墨書「新家 加藤平作様依 大正十一年旧三月節句 照男」

 こうした男児の初節句に贈られた天神人形が、 いくつか市民から博物館に寄贈されています。 たとえば富士市穴原から寄贈された三体の天神人形は大正11年のもので、 照男というひとりの男児に一体ずつ三軒から贈られていることがその墨書からわかります。 そのうちの一体は母親の実家から贈られたようですが、 一体には贈主の名の横に「新屋」(シンヤ)と書かれ、 分家からも贈られていたことが確かめられます。 (富士市では分家をシンヤと呼ぶ)

明治30年ころの天神人形  本博物館の資料の中には明治30年ころの天神人形もあります。(富士市柚木から寄贈) この家では四月三日に天神人形を飾り、五月五日の節句には人形は飾らず、 のぼりを上げたそうです。
▲明治30年ころの天神人形

このような習慣が行われていた当時の富士市の雛祭りについて、 山中共古という人物がその著書『吉居雑話』に次のように記録を遺しています。

 「富士郡ハ旧暦三月三日雛祭ヲナス事ニテ、 吉原町ニ四十二年四月ニハ拾三軒ノ雛見世出タリ、 雛ハ何レモ大形ノ享保雛ノ式ナリ、天神雛トテ菅公ノ人形多シ、 男子ヘ贈ルニハ天神雛、女ノ子ニハ雛ヲ贈ルコトゝス、 町ノ何レノ家ニテモ五段ノ雛段ヲ座敷ヘ飾リアリ、 祝ハレシ物品ハ何ニ関セズ雛段ヘナラベ置クコトゝス、 段ノ背面ニハ紙ノ掛物遊女牛若丸天神様ナトノ掛物ヲカケル、 安錦画ノ板行モノナリ、・・・」
(『吉居雑話』:明治40~44年に山中が吉原に住んでいたころ、 周辺の様子を書き記したもの)

 これにより旧暦三月三日の雛祭に男児には天神人形を贈る習慣が、 女児への雛人形とともに一般的であったことがわかります。 また天神などの掛軸をかけていたことも記されています。
 『御殿場市史(別巻1)』では、 大正初期まで男女にかかわらず初生子の祝いをこの日に行い、 当時は男児の節句として五月五日は祝わなかった人もあると報告しています。
 男児の初節句に天神人形を贈る習慣は、 『静岡県史 資料編25 民俗三』によれば駿河では一円に行われ、 遠州では大井川沿いや水窪町などに限られていました。 富士市のほか沼津市、由比町、富士川町、また山梨県富沢町などにも 同様の習慣があったことが報告されています。

(学芸員:荻野裕子)

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