毎日のご飯を電気釜が炊き、風呂のお湯をガスや電気で沸かすのが日常の今日ですが、
こうしたエネルギーが普及する昭和40年代まで、燃料は長い間マキでした。
木が枯れてくる晩秋から冬の間は、
毎日のようにマキ、モシキをとりにヤマへ出掛け、
1年分を蓄えなければなりません。
1年の途中でマキが不足すれば、毎日の生活に支障をきたすのは目に見えています。
このため軒下にマキを積み上げたり、
マキゴヤ、モシキゴヤという燃料保存小屋を設けた家もありました。
(左)マキゴヤ
たくさん積み上げられたマキはその家の経済的余裕を示し、
嫁にいくならそういう家を選べ、といった格言が各地で聞かれました。
この言葉から生活に占めるマキの重要性が伺われます。
ちなみに木の幹を伐ったものをマキ、
枝を伐ったものをソダ、モシキなどという呼びわけが聞かれ、
マキは風呂などの長時間の燃料、
ソダ、モシキはヘッツイでのご飯炊きや焚き付けなどの短時間の燃料として使ったそうです。
マキ・モシキになるのは杉・桧ではなく、くぬぎやこならなどの落葉広葉樹でした。
落葉や下草は肥料にもなり、整然と植林された山林よりも、
雑木林の方が生活には不可欠な存在だったといえます。
こうした雑木林はひとつのムラで共有林として確保したり、
数カ所で入会の形式をとる場合もありました。
雑木林が重要であるがゆえに、そこでの利用は須津山
(7部落の入会林。現在は財産区)のように、
大木を伐ることができる斧の使用は許れず、鉈・釜なら許す、
などの規定があったり(明治14年「須津山規定より」)、
山の口明け(マキなどの採取の解禁)日が決められている、
といった厳しい制限がみられました。
この富士山南麓地域では、
山麓は豊富な雑木林を抱えるものの裾野に広がる水田地帯から駿河湾沿岸へと
燃料を取り巻く事情は変わっていきます。
環境によってマキは必ずしも自給できるものではないため、
行商や交換があり、またそのほかの燃料源を求めることもありました。
ヤマガ(山麓地帯)には、
マキヤマと呼ばれるマキをとるための雑木林がありました。
現在の聞き取り調査では、
大淵、神戸などのヤマガではムラの共有林という形態がほとんど聞かれず、
個人個人での所有が多かったようです。
しかしそのムラの全戸が所有しているのではなく、
大抵シンヤ(分家)や新しく移住してきた家にはマキヤマがありませんでした。
共有林の場合でも同様に家によって利用権の制限が見られます。
マキヤマを持たない家は、労働提供をしてマキを分けてもらう、
マキを伐ったあとの切り株をもらう、
マキヤマを借りるなどの方法で凌いでいました。
一方豊富なマキヤマを所有していた家では、
マキヤマのない地域の人々に余剰分の立木を売って現金を得ることも
少なくありませんでした。(詳細は②へ)
マチ(吉原や富士などの街場)やマキヤマのない地域にマキを売り歩き、
現金収入にする者もありました。
明治30年ごろ、大淵ではマキ6把を天秤で吉原のマチへ売りにいくと、
全部売れて15銭、馬に大束6把をつけていくと1円の収入になりました。
(昭和41年 静岡県教育委員会編『静岡県民俗資料緊急調査報告書』より)
またマキでのブッコウ(物々交換)もよく行われたようです。
ヤマガでもオカダゴメ(陸稲米)が生産されますが、
水田でとれる味の良いタゴメ(水稲米)とマキ(立木のままの場合も)の交換、
稲ワラとマキの交換はかなり頻繁だったようです。
これはこの地方の水田地帯である加島平野にマキが少なく、
お互いの需要が一致していたという背景がありました。
ヤマガのマキヤマは毎日の暮らしに不可欠な雑木林であるとともに、
財産として大きな位置を占めていたことが創造されます。
▲マキヤマ 富士市穴原(平成5年)
ヤマガの南に広がる加島平野はタバショ(田場所)と呼ばれ、
耕地への開発が早かったためかマキヤマとなる雑木林があまりなく、
ヤマガの方までマキをとりに出掛けました。
これを人々は「タテヤマに行く」と言い、距離があるため朝早く出発し、
マキを積んだ牛舎をひいて帰るのは夕方となる一日がかりの仕事だったそうです。
「タテヤマに行く」先は大淵、鷹岡、貫戸(富士宮市)などで、
これらの土地にマキヤマを所有している家もありましたが、
数軒で金を出し合って「ナカマになり」、
ヤマガのマキヤマ所有者から一定面積の立木を購入したという話が多く聞かれました。
「ナカマに」なった家々は数日一緒に「タテヤマ」に出掛け、
その後マキを分配する方法だったようです。
また①で記したようにヤマガの方からの行商のマキを買う、
稲ワラやタゴメとでブッコウをすることも一般的でした。
富士川沿いでは③で記すようなカワラギ拾いも見られました。