分館・歴史民俗資料館の「タバショのくらし」コーナーに、
「イナガラヌキ」が展示されています。
イナガラヌキを使っていたタバショは、田場所=田んぼどころの意味です。
タバショを見下ろす富士山南麓の人々は、
富士川左岸の加島平野(富士市西部)を、こう呼んできました。
イナガラヌキとそっくりな農具を、
富士市東部の浮島ケ原方面ではカブキリと呼んでいます。
カブキリとイナガラヌキという呼び方は、
市域を流れる潤井川を境にほぼ東西に分かれていますが、
両方とも稲刈りのあと田んぼに残る稲株を片付けるために使われました。
▲イナガラヌキ
この呼び方のちがいには、両地域の土壌環境のちがい
(それにともなう開発の歴史のちがい)が潜んでいるように思われます。
加島平野は富士川が形成した沖積平野であり、
江戸時代の初期に治水事業(雁堤などの築堤)が行われるまでは、
その氾濫源でした。そのあと新田開発が進みますが、
新田村のひとつ・水戸島の幕末の記録では、
この地域の土壌を「砂土で石が混じっている」と表現しています。
しかしそのために排水はよく、
加島では幕末にはすでに稲の裏作として麦を作っていました。
米と麦の両方を収穫することができたのです。
稲刈りの後の水田を、麦作が可能な畑の状態にかえるためには、
固まった土を砕かなければなりません。
そのために、まずはイナガラヌキで稲株の根を切って土から抜いておいたのです
(この作業をイナガラヌキといった)。
加島方面では、麦株と区別するためなのか、稲株をイナガラと呼んでいました。
▲イナガラヌキを使う:昭和10年代か(富士市西部)
一方、広大な低湿地帯であった浮島ケ原では、
稲株が腐ってのこらないようなドブッタ(湿田)も多く、
排水事業が徐々に進展した大正時代になってからカブキリが使われ始めた、
というところもありました。
こうした湿田では裏作は行えず、稲だけの一毛作でした。
このためか、浮島方面で稲株は、ただカブと呼ばれています。
稲株の処理は、翌春までにカブキリで根を切っておくだけだったそうです。
(この作業もカブキリといった)。
排水事業によって浮島ケ原の開発が進み、
ドブッタが通常の水田の状態に近づいていくのは、
昭和になってからのことでした。