歴史民俗資料館

富士市に生きる人々のくらしを中心に展示しています。

歴史民俗資料館は、富士市に生きる人々のくらし(民俗)を中心に展示しています。民俗の実物資料をはじめ、ジオラマや映像を交えながら、解説を施しています。

1階フロア

富士市域は、奥駿河湾の海岸から富士川・潤井川等が作り出したなだらかな扇状地と、富士山・愛鷹山連峰へと続く斜面の間に広がっています。
湾岸の漁村から最北の山村まで標高差800mの間に、人々はそれぞれの地に適したくらしを営んできました。

ハマのくらし

ハマのくらし

延縄漁・シラス漁に使われた道具。シラス加工用具も展示

奥駿河湾沿岸の狩野川河口から富士川河口にかけては浜辺が続いています。このハマに住む人々は地曳網漁やシラス漁を営んでくらしてきました。当地で使われた、シラス船・大漁旗・延縄漁用具等の民俗資料を展示しています。

ドブッタのあるくらし

ドブッタのあるくらし

浮島ヶ原の湿田で使われた農耕具を展示(県指定文化財)

愛鷹山と駿河湾にはさまれた浮島ヶ原は湿地帯でした。そこを開いた水田はドブッタと呼ばれる湿田が多く、長年米づくりに苦労してきました。浮島ヶ原周辺で使われた民俗資料や、田植えのジオラマ等を展示しています

豊作への願い

豊作への願い

一年を通して行われる、豊作を願うさまざまな行事

タバショのくらし

タバショのくらし

“加島五千石”米どころの農耕具をジオラマとともに紹介

加島平野は雁堤の完成と上堀、中堀、下堀などの用水路により「加島五千石」とうたわれた水田地帯でした。周辺地域からはタバショ(田場所)と呼ばれてきました。加島平野で使われた、田植え用具やスキ等の民俗資料を展示しています。

ヤマガのくらし

ヤマガのくらし

製茶用具とヤマシゴトの道具。映像もご覧になれます

富士・愛鷹山麓は溶岩や火山灰などが分布し、近年まで水不足に苦労した地域でした。ヤマガと呼ばれ、畑と山林が広がっています。当地の井戸のジオラマや、木樵・畑作用具等の民俗資料を展示しています。

行き来する人々

行き来する人々

ショイコ・秤など、人や物の行き来に使われた道具を展示

標高差の大きいこの地域に住む人々は、お互いのくらしに必要なものを交換し合ってきました。各地域どうしの、人や物の行き来の際に使われた、ショイコ・桝・秤等の諸用具を展示しています。

2階フロア

2階には新たに富士山南麓の製紙業の歴史や近代教育、子どもの遊びを紹介する展示が加わったことで、これまでの戦争展示とあわせて、「紙のまち富士」の近代史をより広い視野から学べるフロアになりました。

手すき和紙

手すき和紙

かつて、富士川沿いの集落では、その豊富な水量と、背後に広がる山林や畑から手に入れた原料をもとに、手すき和紙が盛んに作られ、江戸時代には「駿河半紙」としてその名が広く知られていました。手すき和紙の工房で受け継がれた技術は、明治時代以降に、富士地域が「紙のまち」として発展するための礎となりました。ここでは、紙すきに携わった職人集団の姿と、手すき和紙の工程について御紹介します。

近代製紙の幕開け

近代製紙の幕開け

明治の世になり、宿駅制度の廃止によって仕事をなくした人びとに三椏などの栽培を奨励したのが、内田平四郎です。明治12年(1879)、彼は栢森貞助とともに、富士地域初の手すき和紙工場(鈎玄社)を設立します。明治中頃には、湧き水の豊富な今泉地区のガマ(蒲)を中心に、内田のノウハウを取り入れた手すき和紙工場が、芦川万次郎・川口卯三郎らによって次々と設立されていきました。時代の転換という逆境をのりこえ、新しい産業の芽を育てることに尽力した郷土の先人たちによって、富士の製紙業の基礎は着実に築かれていったのです。

紙のまちへのあゆみ

紙のまちへのあゆみ

大正から昭和の初期には、世界的な大不況(恐慌)とそれに伴う国内最王手の王子製紙・富士製紙・樺太工業の三社合併などもありましたが、富士地域では地元の資本家たちによって、昭和製紙をはじめとする中小の製紙会社が数多く誕生しました。これを受けて、昭和12年(1937)には今泉地区に静岡県製紙工業試験場が設立されます。この時期につくられた製紙会社や試験場は、現代までつながる「紙のまち」を支える土台となっていきました。

深刻化した公害問題に対し、昭和40年代末頃から、煙突から出る煙に含まれる二酸化硫黄を減らす取り組み(富士503計画)や工場排水の汚れを減らす協定(SS2万トン担保協定)が官民協働によって相次いで実行に移されたことで、富士市の空や海は、以前の青さを取り戻すことができました。ここでは、環境にも配慮した、現代の紙づくりの工程を御紹介します。

こどもの学び

こどもの学びと遊び

江戸時代におけるこどもの学びの場は、私塾や寺子屋が中心であり、教育を受けることができたこどもは限られていました。しかし、明治政府は、身分や性別にとらわれることなく、すべてのこどもたちへの教育を目指し、明治5年(1872)に近代的な学校制度を定めました。それをうけて、富士地域では、地元の人々の尽力により、広見公園内に移築されている原泉舎をはじめとして、各地に次々と学舎が設立されました。そして、それらの学舎の歴史は現在の小学校へと受け継がれています。

ここでは、明治期から現代へといたる教育関係資料を御紹介し、こどもの学びの歩みをたどります。

こどもにとって、学びと同じように、遊びは生活の一部であり、おもちゃは生活の用具としてなくてはならないものでした。それゆえに、こどもの身の回りにあるおもちゃにはさまざまな種類のものがあります。

また、おもちゃはこどもの成長にとっても重要であるとともに、おもちゃが作られたその時々の社会の様子を映したものともいえます。
ここでは、これまでに収集してきたさまざまなおもちゃから、おもちゃを取り巻くさまざまな世界を御紹介します。

戦争とくらし~平和資料コーナー~

戦争とくらし~平和資料コーナー~

富士市の戦争関連資料を用い、戦争の悲惨な実情と平和の尊さを次世代に語り継ぐ機会を提供することを目的としています。

なお、このコーナーの一部は、「平和富士市民の会」の皆様により、定期的に展示替えが行われています。

現在の展示は「特高警察による反戦平和・自由の弾圧」です(2025年1月末まで)。

今回の展示では、1930~40年代(昭和戦前期)に富士地域で起きた3つの弾圧事件を取り上げています。メインの展示は、②の生活綴方教育弾圧事件です。生活綴方教育とは、子どもたちが実生活を文章に綴ることにより、自らの生活を観察・認識し、逞しく生きていく力を育む教育方法です。当時のガリ版刷りのクラス文集や卒業記念写真などの実物資料を展示しています。

展示構成

1. 文芸雑誌『東海文学』同人の検挙
1938年、日中戦争下において、県内の文芸雑誌同人の検挙があり、大宮町(現富士宮市)の3人の青年が弾圧を受けました。

2. 生活綴方教育への弾圧
アジア・太平洋戦争が広がる中で、1942年には県内で生活綴方教育に取り組んでいた12人の教師(現在の富士市域の教師2人を含む)が、特高警察によって治安維持法違反容疑で検挙・弾圧されました。

3. 反戦平和を訴える投書の検挙
戦争が長引き国民生活が苦しくなる中、反戦平和を訴える投書をしたとして、1945年、富士町(現富士市)の女性が検挙されました。