これは江戸時代の戯作者、狂歌師として有名な太田蜀山人が岩淵を訪れた際の紀行文の一節です。江戸時代初期から渡船名主と岩淵村の名主を勤めていた常盤家は、遠くに住んでいた蜀山人にも知られていたようです。また紀行文には、庭に大きな蘇鉄があって、立ち寄ったことが記されています。
江戸時代、岩淵は官道である東海道と信仰の道である身延道が交わる場所として「間宿岩淵」を形成していました。岩淵小休本陣「常盤家住宅主屋」は、まさしく往時の「間宿岩淵」の隆盛を象徴する重要な文化財です。
東海道と身延道が交わる場所として隆盛した「間宿岩淵」を象徴する、国登録有形文化財です。室内にあがることはできません。
岩淵の庄屋常盤弥兵衛といふ者は、もとよりしれるものなり。
庭に多きなる蘇鉄あり。
立ち寄りて見給ひてよといふにまかせて立ち寄る。
これは江戸時代の戯作者、狂歌師として有名な太田蜀山人が岩淵を訪れた際の紀行文の一節です。江戸時代初期から渡船名主と岩淵村の名主を勤めていた常盤家は、遠くに住んでいた蜀山人にも知られていたようです。また紀行文には、庭に大きな蘇鉄があって、立ち寄ったことが記されています。
江戸時代、岩淵は官道である東海道と信仰の道である身延道が交わる場所として「間宿岩淵」を形成していました。岩淵小休本陣「常盤家住宅主屋」は、まさしく往時の「間宿岩淵」の隆盛を象徴する重要な文化財です。
慶長6年(1601)、徳川家康が江戸から京都を結ぶ東海道に宿駅制度を定めました。翌7年に富士川の渡船役が東岸の川成島から岩淵村へ移ったことにより、東海道五十三次の宿場に課せられた伝馬役と同様の重要性を、岩淵村は持つことになりました。また、岩淵村には富士川舟運の河岸場(船着場)という機能もありました。
当時の岩淵村には、街道沿いに街並みらしいものがなく、旅行者が休憩する施設もありませんでした。そこで、幕府は慶長14年8月、伊奈忠次に検地をさせ、宿駅と同様の街並みにするよう命令しました。こうして岩淵村の街並みは次第に富士川に並行するように作られて行きました。これが東海道「吉原宿」と「蒲原宿」の間に位置する「間宿岩淵」の始まりです。
しかし、正保年間(1644〜1647)から洪水に見舞われるようになり、これに伴い、東海道の付け替えが度々行われました。特に宝永元年(1704)の水害は大きく、河岸場の施設や家、田畑の大部分が流されました。さらに、3年後の宝永4年10月に大地震が起こり、街並みは残らず崩壊しました。そこで、街並みを高台に移転することになり、同年12月から翌年閏正月までの3ヶ月間をかけて、東海道の付け替えや家々の所替えが行われました。
新しい東海道は「渡船上り場」から南に104間(約189m)離れ、坂を登り、上町、本町、中町、久保町(現在は上町、相生町)を通り、隣の中之郷村へ至ることになりました。この街並みは街道にそって東側に77軒、西側75軒が立ち並び、その形態は宿駅に劣らぬものであったといわれます。しかしその後、嘉永7年(1854)に安政東海大地震が起こり、家数364戸の内344戸が全壊、残り20戸が半壊という大被害を受け、復興事業は長期に渡ったことが想像されます。
常盤弥兵衛家は、慶長7年(1602)、対岸の川成島から岩淵村へ富士川の渡船役が移った時、同じ渡船名主である齋藤縫左衛門家、齋藤億右衛門家とともに河東(富士川東岸)から移住してきました。以来、常盤家は渡船名主を世襲で受け継ぐとともに、村方名主も年番で勤めてきました。あわせて、東海道・間宿岩淵の大名や公家などの身分の高い人が休憩をする「小休本陣」として重要な役割も果たしてきました。小休本陣では、休憩を原則とし、宿泊することは幕府から禁止されており、別名「立場本陣」ともいわれました。
常盤家が小休本陣をいつ頃から勤めたのかは分かっていませんが、常盤家文書の中に「寛永年中(1624〜1644)に御小休を仰せ付けられた」とあることから、江戸時代初期には既にこの役を勤めていたと考えられます。
また、小休本陣に、天保7年(1836)3月1日、紀州藩(徳川御三家)の枝藩である西条藩(愛媛県)9代藩主・松平頼学(西条少将・1808〜1865)が休息しました。この時松平頼学は、身延山参詣の帰りで1,080人余の供を率いてきたと記録にあります。(『身延山史』)。
その後、明治5年(1872)に庄屋・名主、年寄が、戸長、副戸長に改められると岩淵村の戸長や副戸長を歴任し、さらに明治11年に岩淵村・中之郷村・木島村が合併し、富士川村となると収入役を勤めました。常盤家は岩淵において江戸時代から重要な役を勤めてきた家といえます。
建物の歴史
平成9年(1997)、旧富士川町教育委員会が、常盤家住宅主屋の調査や資料調査を行った結果、常盤家所蔵の古文書から安政2年(1855)に描かれた家相図(6枚組)と、安政3年正月付で書かれた文書が発見されました。この文書には大地震で住居、土蔵、物置のすべてが倒壊したため、住居の再建費百両の借り入れを幕府に願い出たと書かれていました。このため、現存する建物は、安政東海大地震後、安政3年以降の早い時期に建てられたと考えられます。
現在の建物は、平成12年から平成16年にかけて、修復が行われ整備されたものです。
️構造の特徴
この建物は岩淵に唯一の残った名主及び小休本陣の建物で、一般の民家にはみられない形態をしています。現在の間取りは家相図のものより一回り規模が小さくなっていますが、土間部分が通りどまと、前どまを併用し、居室部分を並列六間取り型にさらに2間増やした特色ある間取りといえます。一般的には「六間取り型」と呼ばれる形式をもつ建物は、江戸時代に名主などの役職を勤めた家柄などの有力者に限られているといわれます。居室の一番奥には大名などの賓客が座った「上段の間」と呼ばれる部屋があります。この部屋は隣の部屋よりも床を9cmほど高くし、床の間と違棚を設け、長押を廻す格式の高い作りとなっています。また、表門は家相図とは位置が違いますが、寺社などで使われる「薬医門」という形式で、簡素ながら重厚な造りとなっています。主屋部分は、一部改築されていますが、柱の配置や構造材は建築当初のものと推定され、江戸時代末期の姿を残す歴史的価値の高い建物といえます。
このような価値が評価され、平成10年(1998)、国の登録有形文化財になりました。
️規模主屋
桁行:49.2尺(14.9m)
梁行:45.0尺(13.6m)
総建坪:75.38坪(249.13㎡)
️構造
木造平屋建、切妻造、桟瓦葺
主屋正面軒:セガイ造り
開口部:木製建具、庇及び雨戸付き
外壁:土塗り壁下地押縁下見板張り
交通
JR富士川駅下車 徒歩25分
東名高速道路富士川スマートICから富士ICを御利用の場合15分
小休本陣から富士山かぐや姫ミュージアムまで車で30分
※常盤住宅周辺には、専用駐車場がないため公共交通機関をご利用いただくか、富士川民俗資料館の駐車場を御利用下さい。
公開日
土曜日・日曜日・祝日(平日は要事前予約)
※12月28日〜翌年1月4日は休館
公開時間
午前9時〜午後4時
※屋内にあがることはできません。
見学料
無料
お問い合わせ
富士山かぐや姫ミュージアムまでどうぞ
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