展示室1

〜 富士に生きる 〜

展示コーナー「富士川船運と渡船」、「富士の災害」を加え、展示室全体をリニューアルしました。

富士の舞台

富士の舞台

富士の舞台

富士市域は、およそ北側を火山、南側を水によって形作られた大地として考えることができます。富士・愛鷹の両火山の南麓は、流下した溶岩や火山噴出物によって形成されました。

平野部には河川による扇状地が発達し、東部には富士川や海から運ばれた砂礫によって形成された田子の浦砂丘の北側に、広大な潟湖・浮島沼がありました。富士川も中世以前までは下流が枝分かれをしており、一部は潤井川にまで達していたと考えられます。

富士の歴史の舞台は、特に平野部において、現代とは大きく異なる風景が広がっていたのです。

富士の黎明

狩人たちの息吹

狩人たちの息吹

今から16,000年以上前、まだ日本列島で土器が発明されていない旧石器時代ら、富士・愛鷹山南麓に生きた人びとの歴史がはじまります。

氷河期にあたる当時の年間平均気温は現在よりも7~8度低く、日本列島と地続きであったユーラシア大陸から、人類は大型動物を追いかけて移動生活を繰り返し、「富士」の地へとやってきました。彼らは激しい噴火をくり返す富士山に脅かされながらも、石を打ち欠いて作った石器を駆使した狩猟や採集をおこなうことで、文化を紡いでいったのです。

縄文のムラとくらし

縄文のムラとくらし

長かった氷河期が終わり、温暖化の進んだ約16,000年前になると、日本列島で土器が発明され、人びとは定住生活をするようになります。この時代の土器は粘土で作られた素焼きのもので、縄目を使った文様から、縄文土器と呼ばれています。

煮炊きができる土器の発明により食生活は豊かになり、木の実などの採集や狩猟、漁撈によって自然と共生を果たした縄文時代は、およそ1万年間続きました。この地域では、豊かな水を得やすい富士山南麓の湧水点や河川、浮島沼を臨む高台に多くの集落が営まれています。

集落の成熟と王の誕生

集落の成熟と王の誕生

日本列島で稲作が広がる紀元前4~5世紀頃までに弥生時代は始まりますが、富士・愛鷹山南麓周辺で弥生文化が大きく発達するのは、紀元後1世紀頃のことです。

この時期の前後には水田を求めて低地部にも集落が営まれるようになるほか、丘陵上の集落には防御や区画を意図した環濠をめぐらせるものも現れ、集団の結束が進んでいきます。他地域の集団との交流も活発となり、3世紀なかば以降の古墳時代には、生産や交通の要衝をおさえることで力をつけた勢力から、大きな古墳に葬られるほどの王(首長)が誕生したのです。

群集する古墳たち

群集する古墳たち

6世紀後半以降、駿河・伊豆地域で前方後円墳が造られなくなると、横穴式石室を備えた小型の古墳や、崖の斜面等に穴を掘った墓である横穴墓がたくさん築かれるようになります。

このような古墳のまとまりを群集墳と呼び、一般民衆に近い人びとが埋葬されたと考えられています。「富士」周辺で採用された横穴式石室は、平面形が長方形で、石室内部が入口側よりも一段下がることが特徴であり、同時期に近畿中央部から東海・関東地域の一部へと広がった手工業技術者たちによって共有された墓制であると考えられます。

富士の名を冠する都へ

富士の名を冠する都へ

大宝元年(701)、大宝律令と呼ばれる法体系が整えられ、天皇を頂点とする官僚機構によって民衆を支配する体制が完成します。「日本」国の誕生です。ほどなくして地方には国・郡・郷・里の各行政単位が設けられ、およそ現在の富士・富士宮市域にあたる範囲は、駿河国富士郡と定められました。

伝法地区周辺には役所や倉といった公共施設の集まりである郡家がおかれ、在地豪族出身の郡司たちが行政を主導しました。また、この時期の前後には仏教文化も富士の地へ到来し、祖先供養や国家の安泰を願い、火葬墓や寺院が営まれています。

動乱から太平の地へ

社会の乱れと神仏への祈り

社会の乱れと神仏への祈り

11世紀中頃になると、貴族による政治が衰退し、それに替わり武士が台頭してきます。その流れは、平安時代の終わり頃には決定的となり、人々は社会の乱れに不安を感じ、来世に極楽浄土に行くことを願う浄土思想が拡がりました。

有力者は来世への願いを込めて、経塚を築いて書写した経典を納めたり、寺院に仏像を安置しました。この時期から鎌倉時代にかけ、修験道の修行の場であった富士山や愛鷹山周辺には、有力者から依頼された修験者が納めた経塚が数多く造営されたほか、吉原湊に近接する砂丘上や富士川左岸の岩本といった要衝周辺に墓塔群がつくられました。

源氏と平氏の戦い

源氏と平氏の戦い

政治の中枢にいた平清盛率いる平氏と、その政治に反発する源頼朝率いる源氏は、治承4年(1180)から10年にわたり「源平の戦い」を各地でくりひろげます。

なかでも、治承4年10月に、関東の武士が頼朝に味方するきっかけとなった「富士川の戦い」が起こります。この戦いは、富士川の左岸に陣を張った源氏が移動した際、付近の沼から飛び立った水鳥の音を夜襲と勘違いした富士川右岸にいた平氏が、戦わずして撤退したと伝えられています。

市内には、「平家越」や「呼子坂」といった、この戦いにゆかりがある場所が今でも残っています。

動乱の戦国時代と東駿河

動乱の戦国時代と東駿河

応仁元年(1467)、京都で起こった「応仁の乱」により、戦国大名が群雄割拠する戦国時代の幕が開かれました。東駿河は、今川氏の勢力が強い地域でしたが、交通の要衝であったために、隣国を支配する戦国大名の北条氏(伊豆国)や武田氏(甲斐国)との領地争いの場となりました。一時的に今川・北条・武田の休戦協定(甲相駿三国同盟)が結ばれましたが、長く続く争いの中、地元の人々や有力者、寺院、商人などは翻弄されながらも生き残りの道を探りました。

その後、この地域は徳川家康や豊臣秀吉へと支配者が変わり、江戸時代にようやく平和な時代が訪れました。

富士山東泉院

富士山東泉院

戦国時代から明治初年まで、現在の今泉上和田に存在した密教寺院、富士山東泉院は、富士南麓にある五つの神社(下方五社)の管理・運営をおこなうとともに、時の支配者から領地(朱印地)を認められた領主でもありました。

今川氏が駿河国を支配していた時の東泉院は、村山修験(富士宮市)と関係があり、武田氏の駿河侵攻の際には、今川氏の使者として越後国の上杉謙信のもとを訪れるなどし、時の支配者たちに重要視していた有力な寺院でした。
東泉院は明治初年に廃寺となりましたが、古文書や書画、民俗資料、仏教関連資料などが伝わっています。

街道と宿場のにぎわい

東海道の整備と吉原宿の変遷

東海道の整備と吉原宿の変遷

徳川家康による五街道の整備が行われると、公用の文書や荷物をリレー方式で取り継ぐ拠点の宿場が、全国の街道ごとに設けられ統一されました。

吉原宿の前身といえる見付は、鎌倉時代初期、吉原湊(現田子の浦港)付近にありましたが、自然災害により東側へ移転し今井村と一緒になって宿場が形成されました。やがて慶長6年(1601)、吉原宿は東海道の宿駅として正式に指定されたのです。しかし、その後も吉原宿は自然災害により2度の移転を経験することになるのです。

水とのたたかい

富士川を制する

富士川を制する

戦国時代末期から江戸時代初めは、日本の耕地総面積が約3倍に増加した新田開発の時代でした。

山と平野の境に位置する富士川左岸の岩本山付近は、灌漑用水が引きやすく開発するには好条件でしたが、新田開発を行うには、暴れ川富士川の流れを落ち着かせなければなりませんでした。

潤井川を活かす

潤井川を活かす

潤井川は富士山西麓の大沢崩れを源流とし、風祭川・神田川・弓沢川・天間沢川・凡夫川などをあわせ、鷹岡伝法用水・上堀・富士早川(中堀)・下堀川・小潤井川などに分流し田子の浦港へ注いでいます。

昭和49年(1974)に星山放水路が整備されるまでは、雪代と呼ばれる富士山の雪解け水による土石流や、暴風雨による氾濫に悩まされてきましたが、その水は古くから灌漑用水として利用され、富士市西部の水田を潤してきた河川でもあります。

浮島沼から浮島ヶ原へ

浮島沼から浮島ヶ原へ

富士市東部の愛鷹山と駿河湾にはさまれた浮島ヶ原には、明治初期まで中心部に大きな沼があり、東西13km、南北2kmにも及ぶ低湿地帯が広がっていました。

海抜が低く排水能力に劣るために大雨になると浮島ヶ原全体が水浸しとなり、また高潮の度に吉原湊口(現田子の浦港)から海水が逆流する水害多発地帯でした。

富士川船運と渡船

富士川渡船

富士川渡船

富士川は、南アルプスを源流とする釜無川と、秩父山地を源流とする笛吹川が、甲府盆地南部で合流して富士川となり、静岡県の富士市と静岡市の間で駿河湾に注いでいます。その流域は全長約128kmにおよび、海抜3000m級の山々に源を発しているため河床が急傾斜であり、熊本県の球磨川、山形県の最上川と並んで日本三大急流のひとつに数えられています。

一方、古来、官道としての東海道は富士川と交差する運命にあり、東海道は、この暴れ川、・富士川の渡し方に、常に悩まされてきました。ここでは、人々がどのように富士川を渡ってきたのか、その歴史と実像をたどります。

富士川舟運

富士川舟運

さまざまな制度が整えられた江戸時代、世の中が安定して経済が繁栄し、流通を支える交通が重視されます。陸上より大量の物資を安く速く輸送できることから、海上・河川交通が注目され全国の主要な河川で舟運が行われるようになりました。

富士川は、東海道の渡船場という重要な役割に加えて、河川交通の場として、新たな役割を担うことになったのです。

富士火山

富士火山

日本列島には、100ヶ所以上の活火山の存在が知られています。活火山とは、おおむね過去1万年間に活動したことのある火山のことを指し、なかでも富士山は、近い将来に噴火のおそれがあるとして、その動向が注目されている活火山の1つになります。

富士山の山頂火口からの噴火は紀元前3世紀頃までには終息し、それ以後現在にいたるまでは、中腹の火口からの噴火期であると考えられています。富士に生きる人びとにとって、最も親しみを感じる山の、忘れてはならない牙を向く一面についてみていきます。

富士の災害

台風と高潮

台風と高潮

富士の地は、過去の台風やそれに伴う高潮による被害にたびたび見舞われています。急深となる駿河湾の地形特性が悪く作用し、10mを越える異様に発達した高波や高潮が歴史的に頻発する地域として知られているのです。

また、高潮により海水が河川を溯上することで、流域一帯に被害をもたらす海嘯も発生しており、海岸部のみならず、平野部の人びとの暮らしもおびやかしてきました。富士に生きる人びとにとって最も身近な災害である台風・高潮被害とその後の対応についてみていきます。

地震

地震

静岡県は、昭和51年(1976)頃から駿河湾を震源とする東海地震に備え、さまざまな地震対策を実施してきた「防災先進県」として知られます。

こうした取り組みの背景には、東海・近畿・四国地方の沖合いにある海底の凹地(南海トラフ)において、東海・東南海・南海地震などのマグニチュード8級の巨大地震が、約100年から200年ごとに発生してきた歴史があることを忘れてはなりません。ここでは駿河湾沿岸に大きな被害を与えた最近年の南海トラフ巨大地震をふりかえり、その被害や人びとの対応についてみていきます。