「富士山の麓で美しく成長したかぐや姫の向かった先は、月ではなく富士山であった。」
富士山の南麓では、広く知られた竹取物語とは異なるスト?リーが古くから語りつがれてきました。さらに、この地域には、かぐや姫にゆかりのある場所が数多く残されているのです。
富士山の麓にあらわれたかぐや姫は何者なのか、なぜかぐや姫は富士山で姿を消したのか、富士山のかぐや姫物語の世界をたどります。
〜 富士山とかぐや姫 〜
展示室全体をリニューアルしました。
「富士山の麓で美しく成長したかぐや姫の向かった先は、月ではなく富士山であった。」
富士山の南麓では、広く知られた竹取物語とは異なるスト?リーが古くから語りつがれてきました。さらに、この地域には、かぐや姫にゆかりのある場所が数多く残されているのです。
富士山の麓にあらわれたかぐや姫は何者なのか、なぜかぐや姫は富士山で姿を消したのか、富士山のかぐや姫物語の世界をたどります。
かつて、富士山は神仏が宿る山であると考えられており、その由来や伝説について、『富士山縁起』と呼ばれる書物の中で紹介されています。
『富士山縁起』には、作られた時代や場所により内容が異なり、さまざまな種類のものがありますが、その中に、富士山の祭神として、天女やかぐや姫を取り上げたものがあります。
ここでは、天女やかぐや姫が登場する『富士山縁起』をご紹介し、富士山とのつながりを読み解きます。
戦国時代から明治初年までの約350年にわたって、富士市内・今泉の地に存在した密教寺院、富士山東泉院。その歴史の中、東泉院は富士山の南麓に位置する五つの神社(下方五社)の管理・運営をおこなってきました。それとともに、幕府から領地(朱印地) を認められ、この地域の領主としての性格も有していました。
東泉院に伝来した富士山縁起には、富士山のかぐや姫物語をはじめとする富士山の由来や伝説、かぐや姫の物語にゆかりのある様々な場所が記されています。まさに、かぐや姫の物語の舞台である富士山の麓で、東泉院がさまざまな活動をおこなうための原点となるものであり、21人におよぶ住職によって大切に受け継がれてきたのです。
富士市の東部に位置する比奈地域を中心に、富士山の南麓には、富士山のかぐや姫物語にゆかりのある場所が数多く残されています。
その背景には、富士山のかぐや姫物語を記した富士山縁起をもとに活動した東泉院の存在がありました。下方五社を中心とする東泉院の活動により、富士山のかぐや姫の物語は徐々に地域に定着し、また、さまざまな記録や絵画などに残されていきました。
その結果、江戸時代から明治時代にかけて、富士山の南麓はかぐや姫物語の舞台として知られるようになり、現代まで受け継がれてきたのです。
噴火を繰り返す富士山の山頂には、浅間大神という神が存在していると考えられてきました。その神に祈りを捧げ、噴火を鎮めるために富士山の麓には数多くの浅間神社が設けられてきたのです。
浅間大神は、長い間、かぐや姫をはじめとして、さまざまな姿で表現されてきましたが、そこに共通するのは、女神としての姿です。
みなさんが抱く、富士山の女神のイメージにもっとも近い姿を是非探してみて下さい。
富士山には、山頂へいたる複数の登山道があります。それぞれの登山道には、基点となる場所に浅間神社などの信仰施設があり、それらの信仰施設と関係を持つ宗教者がさまざまな活動をおこなってきました。
その活動の一つとして、江戸時代から明治時代にかけて、富士山に訪れる登山者のために、各登山道のルートや、周辺の宗教施設や名所旧跡、富士山へいたる道中を描いた登山案内絵図が数多く版行されています。
それは、まさに富士山を中心とする信仰空間を描き出したものであり、当時の人々の富士山へのまなざしが表現されているのです。
村山修験の歴史は古く、平安時代の終わりに伊豆の走湯山の修験者である末代が度重なる富士山への登山修行を行い、村山に修験者の拠点を形成したことが始まりであるとされます。
以降、中近世の時代には、末代が村山の地に開いた富士山興法寺を中心に、修験道本山派に所属する多くの 修験者が活動 していました。
しかしながら、宝永の噴火や、明治時代初期の神仏分離政策の影響をうけ、村山の修験者の活動は縮小していくこととなります。
しかし、その中でも、活動を続けた家がありました。
その家の一つが秋山家でした。富士山での過酷な修行を経て特別な力を手に入れ、地域の人びとから尊敬の念を込めて「法印さん」と呼ばれた秋山家の修験者たちは、まじないや祈祷を通して、人びとの日常生活に深くかかわっていたのです。
富士川の西岸、かつて富士川の渡船役を担った岩淵の集落には、集落の人びとが中心となって構成される鳥居講という集団によって、12年に一度、富士山の山頂に白木の鳥居を奉納するという行事が、江戸時代から途切れる事無く受け継がれています。
一説には、岩淵では、毎年新たに作られる渡船の船材を、富士山本宮浅間大社の領地であった富士山麓から手に入れており、その返礼や渡船の安全祈願 のために富士山に鳥居を奉納するようになったと言われています。
この行事は、現在ではほとんど見られる事がなくなった、富士山に対する信仰と地域の生活が密接に結びついた非常に貴重な事例であるといえます。
富士山は、信仰の対象であるとともに、麓で生活を営む人びとにとっては、日常の風景の一つとして存在しつづけてきました。その美しい風景をおさめた写真や絵画は、国内だけではなく、世界へと広がり、日本を象徴するイメージとして、多くの人びとの心の中に定着し、現代の私たちへと受け継がれています。
そのイメージもまた、世界文化遺産となった富士山の重要な価値の一つと言えるのです。